伯母の案で男装し、悪戦苦闘の末にようやっと入れた典薬寮から仕事寮に異動になった時、それはもう戸惑ったものだ。
 縁もゆかりも無い仕事寮に、ようやっと仕事に慣れたばかりの私が飛ばされるなんて。今までの苦労が水泡へ帰した事実をすぐには受け止められず、同期でそれなりに仲の良い者に愚痴を言ってしまった。

 翌日になっても揺るがない現実を受け止める覚悟も出来ぬまま、新しい職場に重い足で向かった私は、そこで人生最大の驚愕を覚えた。この先一生、あそこまで驚くようなことは無いだろう。


『やぁ、仕事寮へようこそ』


 彼を見た時、胸に去来した既視感と記憶に、私の中で雷が落ちた。僧侶に声をかけられるまで、私の意識は驚きの剰(あま)り身体を飛び出して無辺世界に迷い込んでいたのだろうと、今でも思っている。

 和泉と名乗った彼に対して、私は以後極端に挙動不審になり、露骨に避けた。仕事に慣れるまでと一緒に常仕を行うのは、決まって源信様と壱号殿――――なんと彼は安倍晴明様の式神と言う――――の二人だ。
 ままに安倍様にも同行するのだが、どうにも私は彼を苛立たせることの方が上手いようで、仕事に慣れた最近は常仕でなくともあまり一緒にいないようにしている。

 こんな風でも、和泉様以外はちゃんとやれているのだ。
 ライコウ様ともそれなりに世間話も出来るし、謎の生き物弐号殿の戯れ言も無視することが一番良いと学習した。

 唯一和泉様とだけ、未だまともに話が出来ていない。

 だから今現在この状況下は拷問のように苦しかった。


「ははは、失敗しちゃったね。○○」

「……も、申し訳ございません」


 私は今、木の葉を身体の至る所に張り付けて和泉様の上に覆い被さっている。
 強制的に選ばされた常仕をこなす為に、単身上った木から落ちたのを和泉様に受け止めていただいたのだ。ライコウ様が『宮』と敬われる程の彼にとんだ重労働を強いてしまったのだ、私は!

 すぐに退こうとして上体を起こした私は、そこで近くの低木に髪が絡まってしまったのに気付いた。
 面倒だと髪を抜こうとすると、その手を和泉様の手に押さえられて小さく悲鳴が漏れた。


「ちょっと待ってて」

「え」


 視線を彼へと戻そうと動かした私は、眼前が黄色と緑で埋め尽くされていたのにそれはもう驚いた。
 何事かと慌てる私に、和泉様がじっとしているように、と。
 彼の声でようやっとこの色が彼の衣服の色であることを知る。だが正直分からないままでいたかった。分かったら分かったで、落ち着かない。


「はい、解けたよ」

「あ、あり、がとう、ございます……」


 即座に離れ頭を下げる。
 すると彼はくすくすと笑って私の肩に手を置いた。

 木の葉を払い落とす和泉様は苦笑を浮かべて、


「これからは適材適所をちゃんと考えてね」

「いえ、木登りは得意だったのですが、蜂が耳元を通過したので驚いて足を滑らせてしまっただけです」

「木登りはライコウに任せておけば良いよ。君は危ないから駄目。○○は女の子なんだから、ね?」

「そういう訳にも――――は?」


 私は固まった。
 ……あれ、おかしいな。
 今、和泉様私のことを『女の子』って言ったような……。


「すみません。最後の言葉が聞こえなかったのですが」

「○○は女の子なんだからって言ったんだ」

「……」


 私は無言で和泉様に背を向けて脱兎の如く駆け出した。



‡‡‡




 あれからはずっとライコウ様の手伝いに徹した。

 そわそわと落ち着かぬまま仕事を終えて仕事寮に戻るその道で、ふととある小路に入った途端に私は足を止めた。

 ああ、なんて懐かしい景色。
 小路など皆似たような景色ばかりだが、私にはそれでも漠然とながらに分かった。
 ここは昔、よく見ていた景色だと。


「和泉様、ライコウ様。少し寄りたい場所がございますので、先に仕事寮に戻っていただけますか。用が済めばすぐに追いかけます」

「……そうか。遅くならぬのであれば、構わない」

「はい。では」


 二人に頭を下げ、辞する。大股にすぐ近くの角を曲がって、昔慣れ親しんだ道を進んだ。

 何度か角を曲がって至ったのは無人の邸だ。門を押し開いて中に入れば、荒れた庭と建物が目に入る。

 懐かしい。
 私は人の手の入らなくなった寂々とした景色に眦を下げずにはいられなかった。

 ここで、私の人生は一度終わった。暗い闇に潜むアヤカシの暴虐の爪牙によって。

 就寝していた隙にそのアヤカシは邸に現れ、私以外の人間を喰らい尽くした。私は母に逃がされ、難を逃れることが出来た。
 母に言われて明るくなるのを待ったけれど、二度と戻ってきてはいけないという言いつけを破って邸に戻った私を待っていたのは、嵐の後の凄惨な悲劇だった。
 誰もがもう、人としての形を失っていて、一人として、私に笑いかけてくれなくて。
 その場から逃げ出し現実を拒絶する以外に何も出来なかった。

 無人となって手入れのされていない邸の中に入れば、茶色に変色した簀の子が軋みを上げる。ぶちまけられたようなシミは全て血だ。

 私の家族と、私の邸で働いてくれていた優しくて面白い人達。
 みんな、一夜のうちにいなくなった。

 金具部分が錆びて開きにくくなった妻戸を強引にこじ開けて中に入れば、あの日のようなむっとした血臭はせず、代わりに獣の臭いが濃厚だった。野犬や鼬(いたち)などが住み着いているのだろう。乾燥した動物の糞も所々に見受けられる。
 かつて一つの母と娘、そしてそれに従う人間達が幸せに暮らしていた邸は、今や獣の塒(ねぐら)だ。

 だが、それでも一度人間が死に絶えた場所で生き物が住み着いているというのは喜ばしいこと。きっとここは、動物達が自由に暮らし、騒がしいのだろう。そう思うと、寂寥感(せきりょうかん)もほんの少し晴れたような気になる。
 何となしに今の状態を確かめに来たのだけれど、これはこれで良かったのだ。
 私は中をぐるりと見渡して手を合わせた。目を伏せて暫くの沈黙の後、手を降ろす。きびすを返した。あまり長居してここの今の家主達に見つかるのは遠慮しておきたい。

 足早に階(きざはし)から南庭に降りて門へと向かう。

 と、門柱の影に隠れて誰かが佇んでいるのに足を止めた。
 こんな廃墟に――――盗人の類だろうか。こんな真っ昼間から熱心なことだ。
 腰に差した短刀を鞘から抜かずに持って大股に門をくぐった。

 そしてその人物を視認し、仰天してその場から跳び退(ずさ)った。


「い、和泉様っ!?」

「やぁ」

「なっ、なんっ」


 廃れた邸とは全く似合わぬ柔和で温かみのある笑顔で、和泉様は驚いて変な体勢になってしまっている私に歩み寄ってくる。
 私は反射的に常仕での彼の言動を思い出して半歩退がった。

 すると、和泉様は足を止めて苦笑した。


「そこまで警戒されると、傷ついちゃうなぁ」

「す、すみません。あの……今まで典薬寮の誰にも女だって知られたことが無かったので」

「残念だけど、仕事寮の皆にはバレちゃってるかな。所作とか見ていると結構分かり易かったし。典薬寮も、もしかしてって思ってる人はいたと思うよ」

「……」


 おばさま、わたし、いまものすごくなきたいです。
 典薬寮にいた頃からバレていたのかもしれないと思うと、上手く振る舞えていると思い込んでいた自分が馬鹿らしく思えてくる。
 私は額を押さえて和泉様に小さく謝罪した。


「男になりきれていない女が男やってて、本当にすみません……」

「気にしないで。理由があって男として振る舞っているのなら別にそれでも構わないんだ。仕事寮の仕事にも、ほとんど支障は無いからね」


 ぽふ、と頭を撫でられて、また身体を強ばらせた。
 この頭を撫でる感触は、《あの時》と同じだ。
 記憶を擽ってくる感触に身を捩り、私は和泉様に頭を下げた。


「あの、すみません。和泉様が何故ここに?」

「ん? ○○に渡したい物があって」

「私に、ですか?」


 首を傾けると、和泉様は袂を探って小さな包みを取り出した。

 笑顔で手渡され、私はその場で包みを開いた。包みは思っていたよりも軽かった。香ばしい匂いもする。
 中身が見えたところで、私はあっと声を漏らす。


「……煎餅」


 こんがりと美味しそうな焦げ具合、凸凹に焼き上がった薄い唐菓子(からくだもの)。
 《あの時》私が貰った物と、よく似ている。
 顔を上げると、また頭を撫でられた。咄嗟に身体をびくつかせひゅっと息を吸い込んだ。


「……大きくなったね、お互い」


 懐かしむような穏やかな声に、胸に何かが溢れる。

 その瞬間、私の身体は勝手に動いた。それは歓喜だったか、驚愕だったか――――こみ上げた衝動に突き動かされるままに地面を蹴り上げた。

 我に返った時、私は《恩人》に抱きついていたのだ。


「元気そうで良かった」


 あの時の泣き顔しか、知らなかったからね。
 彼は、私の顔を挟んで上向かせるととても嬉しそうに微笑んだ。

 私も目を和ませる。自然と、笑みが浮かんだ。
 たまらなく嬉しかった。
 嬉しくて、嬉しくて――――。

 泣きながら彼の胸に頬をすり寄せた。



‡‡‡




 何が悲しいのだったか。
 どうして自分は泣いているのだろう。
 悲しいことがあった気がする。でも、思い出せない。思い出したくない。

 ただただ寂しかった。
 だから泣いているのかもしれないし、もっと別の感情が作用しているのかもしれない。

 自分のことすら分からない彼女は、まるで抜け殻だ。ふらりふらりと小路をさまよい続け何処を歩いているのかも分からない。
 このまま、かまびすしい蝉達の合唱の中に消えてしまえたらいっそ楽なのかもしれない。何も分からないまま泣き続けるよりは、ずっと、ずっと。

 彼女は何かを求めるでもなく、都の中を徘徊した。
 歩き続けて消えれば良い――――さほど強くもない茫漠とした願いを胸に携えながら。

 適当に角を曲がり、気まぐれで直進して到着した湖の畔で、彼女は転ぶ。
 それにすら無反応で起き上がると、横からすっと差し出された手があった。


『大丈夫?』


 そう問いかけてきたのは、彼女よりも少し年上の少年だった。

 彼女は無表情に彼を見上げ、手を借りずに立ち上がる。平気、と答えようとした口はしかし、掠れた声しか出なかった。まともな言葉にもならなかった。

 少年は、彼女の様子に何かを感じ取ったらしい。差し出した手を伸ばして、彼女の頭を撫でてきた。
 そうしてまた同じ問いを繰り返したのだ。

 その彼女を気遣う優しい声音は、何処か転んだ時に母がかけてくれた声に似ていた。
 だからだろうか。
 彼女はその場に座り込んで声大きくして泣きじゃくった。止まらない涙はぼたぼたと地面に落ちた。

 少年は狼狽えたのもつかの間、すぐにまた、あやすように頭を撫でてくれた。泣き止むまでずっと、側を離れないでいた。
 彼女が一旦落ち着くと、少年は彼女に唐菓子を与えた。ここで一人でゆっくり食べる筈だったけれども、あげると言って、彼女の手に持たせた。

 礼は言えなかった。その前に少年を呼ぶような声が聞こえて、少年が走り去ってしまったからだ。

 名前も分からず身分も分からず、風のように消えた少年は、しかし短い時間の中で彼女の中にその存在を印象深く刻みつけた。



 その時から、彼女の中で少年は忘れ得ぬ殿方となったのだ。



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