ここに、一振りの包丁があります。
 それは未だ何も切ったことが無い、けれども名匠の手によって精魂込めて最上の出来に鍛え上げられた刃物です。

 これを、何らかの理由であなたが手にしたとします。
 あなたはこの包丁で《何》を切りますか?

 大勢の方は勿論、当然のように食材とお答えになりましょう。包丁はお料理に使う道具ですからね。

 ですが、中には必ずいらっしゃる筈です。
――――生き物、人と答える方が。

 さて、その方は迷いながら答えるのでしょうか、澱み無く答えるのでしょうか、狂気を孕ませて答えるのでしょうか。

 包丁は結局は刃物なのです。当初の目的を果たす為の切れ味は、危険な殺傷能力も備えています。どちらの用途も出来るでしょう。
 使い方はわたくし達使用者の問題なのです。

 善悪は常に背中合わせ。誰の心にも存在する、人として在る為に終生無くてはならないものです。
 善だけの人間、悪だけの人間など、いる筈がありません。不完全だからこそ人は人なのだとわたくしは思います。

 ……ああ、申し訳ございません。何も、わたくしの勝手な持論の押しつけたい訳ではないのです。なにぶん、わたくしはどうも人とお話しするのが得意ではありませんので……。

 何を言いたいのかと申しますれば――――仮にあなたに未来を見通す力が生まれながらに宿っていたとします。
 あなたなら、その力をどのような目的でご使用なさるのか――――いいえ、何を思い、力をどうなさるのか、それをお教えいただきたいのです。どうか気軽にお考え下さいな。深く考える必要はございません。至極下らない、わたくしのただの興味ですから。

 ……え、わたくしですか?
 わたくしは――――……。




‡‡‡




「○○、こんにちは」

「あら、関羽。いらっしゃい」


 寝台に腰掛けていた彼女は立ち上がり、両手を前へ突き出して何かを探すようにさまよわせながらふらふらと危なげに歩き出した。
 すぐにでも転んでしまいそうな彼女に、関羽は慌てて駆け寄った。○○の身体を支えて寝台へと戻す。


「もう……目が見えないのだからじっとしていなくちゃ駄目じゃない」

「あらあら。わたくし、これでもこの部屋でちゃんと生活しているのよ」


 おっとりと首を傾けて微笑む○○に、関羽は唇を尖らせる。
 いい加減自覚をして欲しいと彼女の《縫われた》目に労るように指を這わせた。


「曹操があなたの力を利用としていることくらい、分かっているでしょう?」

「ええ。毎日のように乞われているのだし。でも、猫族の為以外に使う気は無いわ。わたくしは、猫族の《巫(ふ)》だもの。わたくしはこの力を猫族を守る為に使うの。ずっと前から、そう決めています」


 見るも痛々しい瞼を撫でる関羽の手をそっと握り、その手を優しく撫でてやる。この純粋で高潔でありながら脆い娘を、○○は実の妹のように可愛がっていた。関羽もまた、彼女のことを遠い存在ではなく、あくまでも友人として同等の態度で接してくれる。それが、今でもたまらなく嬉しかった。

 代々猫族の巫として猫族の精神的な支えを担ってきた彼女の家系は、巫となる女は必ず生まれながらに目を縫って視界を閉ざす。それは生まれ持つ《未来》を見通す力の乱用を抑制する為であり、外部からの刺激を制限し、感情にまかせて力を放たぬようにという、戒めでもあった。
 生まれながらに光りも色も知らぬ彼女は、それでも底抜けに明るく、意外に好奇心旺盛で剛胆な娘であった。

 力を使わず、占いを以て猫族を導く○○は、ただただそこにいるだけで周囲の人々の激情を鎮めてくれる。
 幼い頃関羽が劉備達と喧嘩した時など、よく黙って隣に座ってくれた。そうすると、不思議とささくれ立った感情も凪ぎ、謝ろうという気持ちになれるのだ。

 劉備と同様、彼女は猫族全体で守らなければならない存在だった。

 けれども。曹操に猫族の村が襲撃された際、○○は一人曹操に遭遇し、彼の目の前で《未来》を見てしまったのだ。勿論猫族を守る為に迷い気も無く。
 その能力に曹操が目を付けたことは、言うまでもない。

 曹操は猫族を戦力として連れ出すだけでなく、○○をも求めた。
 それは猫族全てが許さなかった。
 が、○○はあっさりとこれを許諾。曹操の為には絶対に使わないと堂々と宣言して、人間の世界に無理矢理引き込まれた関羽達の支えとなる為に同行を選んだ。

 今もなお、曹操は○○に力を使えと強要する。が、彼ですら○○の強固な態度を崩せずにいた。
 そろそろ強攻策を執らないとも分からない。

 劉備や○○の身に危険が及ぶのではないかと、関羽は勿論猫族の皆が不安に感じていた。

 当の本人達は、のんびりとしたものではあるが。


「ああ、そうだわ。昨日ね、夏侯惇さんからお菓子をいただいたの。お礼に恋占いをして差し上げましょうって言ったのだけれど、物凄く強く拒絶されてしまったわ。とても武人らしい方ね」

「そう……」


 ○○はおっとりしている。なのでままに蔑みの言葉をやんわりといなして、真綿のような心地良い甘い声音で話をしようとするのだった。関羽が訪れていた時も、夏侯淵を誘って――――というか翻弄して毒気を抜き続けていた――――城内を危ない足取りで散策していた。張飛達が必死に言い聞かせて部屋に戻した時の夏侯淵の顔と言ったら無かった。
 彼女には、夏侯惇達も調子を崩されているようで、この点はちょっとすっきりする。


「それでね、先日張飛と同じくらいかしらね。若い女官の子がとっても悩んでいて、わたくし、お節介だけれど占って差し上げたの。そうしたら今朝、喧嘩していた恋人と仲直り出来たって言うのよ。わたくし、とっても嬉しくなっちゃって。関羽も、誰か好い人が見つかったらちゃあんとわたくしに相談してちょうだいねぇ」

「そんな、人間達の中で好い人なんて……」


 ○○は、そこで関羽の手を両手で握り締めた。
 優しく包み込まれると、全身が溶けていくような、そんな気持ちの良い感覚に襲われた。


「大丈夫よ、関羽。あなたには明日、新しい出会いがあるの。その人はね、人間だけれど猫族にとってとても優しくて頼りになる殿方なのよ。ちょっと天然だけれどね、これから先猫族の助けになってくれる方」

「○○、あなたまた力を……」

「言ったでしょう? わたくしは、猫族の為にしか力を使わないと」


 これくらいは、させてちょうだい。
 春の日差しのような微笑に、関羽は口を閉じる。
 ○○は、戦えない。それを内心では歯痒く思っているのだ。だから屋敷の中で戦いながら、彼女に出来ることで猫族を助け、支えようと必死なのだ。

 そんな彼女に自分達がしてやれることは、一つだけ。


「○○。いつか劉備と一緒に村へ帰りましょう。……いいえ、帰るの。絶対に」

「ふふ、ええ。信じているわ。でもね、わたくしも劉備様も、あなた達が傷つくことが一番怖いの。それだけは忘れないでちょうだいね」


 手をさまよわせ、時間をかけて辿り着いた頬を優しく按撫(あんぶ)する。
 関羽は力強く頷き、寝台を立ち上がった。

 すると途端に○○は拗ねたように唇を尖らせる。


「あら、もう行ってしまうの?」

「ごめんなさい。今日はちょっと用事があって。劉備のところにもそんなに長く顔を出せないの。また張飛達を連れて遊びに来るわ」

「ええ。待っているわ。またね、関羽」

「ええ。また」


 関羽は見えないと分かっていながらも、○○に笑って片手を振り、足早に部屋を出ていく。



 遠ざかる足音を聞きながら、○○はふと瞼を撫でた。
 そして、薄く口を開いた。


「……まあ、今日は偃月なのね」



‡‡‡




 ○○は一人、馬頭琴を奏でていた。
 全ての霊魂を宥め鎮める旋律はかつて母親に厳しく仕込まれたものだ。
 《これから》失われる数多の命の為に、そして乱世の唸りに怯える者達の為に、せめてもの慰みにと毎夜馬頭琴を奏でる。

 少しでも遠くに、この音色が届けば良い。
 それだけを願い心を無にして弓を滑らせる。

 と、不意にその音色が止む。
 ○○は弓を離し、視線を動かさぬままにふわりと微笑んだ。


「いらっしゃい、劉備様」

「やあ、○○」


 消え入りそうな、淡い微笑を浮かべ、純白の化身は○○の隣に腰を下ろし、彼女の頭をそうっと撫でる。その手付きは労るように、愛でるように、彼女の髪の感触を味わった。
 ○○は劉備の手に身を委ね馬頭琴を脇に置いて手を差し出した。劉備がその手を握る。

 彼に、いつもの幼稚な面影は何処にも見受けられない。大人びたかんばせは切なさを帯び、見た目以上の年齢を思わせた。


「また曹操が来たのかい」

「ええ。関羽が帰って少ししたくらいでしょうか。いつものことなのですが、すぐにお帰りになりました」


 劉備は安堵して細く吐息を漏らした。けれどもすぐに申し訳なさそうに眦を下げて○○の頬を両手で挟み込む。身体を伸ばして口端に口付けて小さく謝罪した。


「ごめんね。僕が皆を守れたら良かったのに」


 手を離そうとすると、○○の手が重なる。


「あなたの役目は戦うことではありません。皆の心の支えとなることです。それもまた、皆を守る立派な方法なのですよ。そのことの重要さに、早くお気付きなさいまし。……ほら、その証拠にわたくしもあなたがいるから、わたくしの定めた目的を曲げずに曹操の要求をちゃんと撥(は)ね退けられているのですよ」


 とても優しくて、心穏やかにさせる声に言い聞かせられ、劉備は小さく頷く。
 彼女の言うことも、よく分かる。
 けどもやっぱり取り返しのつかないことになった時、この身体では自分は何も出来ない。関羽達も守ってやれない。一番大切な○○のことも。
 それが、たまらなく歯痒い。

 沈む劉備の思案を見越したように、○○は劉備をキツく呼んで咎めた。


「一夜限りの逢瀬ですのに、今日の劉備様は甘い言葉の一つもかけては下さらないのですね」


 拗ねたように言う年上の女性に、劉備は苦笑を浮かべる。そして、また謝罪した。


「好きだよ。○○」

「ふふふ……嬉しい」


 擽ったそうに笑う彼女の痛ましい目に、劉備はそっと口を近付けた。
 心の中で、彼女の、そして猫族の無事を願いながら。



後書き⇒



戻る