病院 | ナノ

さん







 少年の名はエリクと言った。佐代子と同様、目覚めると見覚えの無いこの部屋にいたとのこと。
 彼がこの部屋で懐中電灯を見つけたのは大きい。明かりがあるだけで心強いし、部屋の中を調べられる。

 ひとまず懐中電灯の明かりを頼りに、二人で狭い部屋――――微かな光に露となった病室の中を調べることとした。


「ここが何処なのか、君は知っているの?」

「多分何処かの病院だろうってことは、何となく。でも正確な町や都道府県は分かりません。私の地元でも、こんな病院は無いし……」


 沈黙。
 エリクから何の反応も返ってこないのに佐代子は訝った。サイドボードに伸ばした手を取め、エリクを振り返る。


「エリクさん?」

「……一つ、訊いても良いかな」

「? はい」

「ここは、カトライアじゃないのかな」


 かとらいあ?
 佐代子は聞き慣れない国名に首を傾げた。
 名前だけを聞くと、ヨーロッパにありそうな気もする。だが、そんな国は無い……と思う。
 一応訊ねてみようかと、佐代子は口を開いた。


「ええっと、それはヨーロッパのどの辺りに当たるんでしょうか。それとも南アフリカだったり……」

「ヨーロッパ……南アフリカ……ごめん、分からないよ」

「え、えええ」


 それすらも知らないの?
 エリクは見た限り自分と同じ歳、或いは一つ二つ上程だ。
 中学生で平均的な学力の佐代子でも知っていることを、目の前の利発そうな少年が分からない筈がない。


「私からも一つ質問させて下さい」

「うん」

「携帯電話、パソコン、日本、太平洋……今あげた言葉が分かりますか?」


 エリクは沈黙し、やおら首を振った。左右に。

 ……どういうこと?
 佐代子は腕を組んで思案した。
 知っていて当たり前だと思う単語を並べたのに、どれも分からないなんて、変。
 探るようにエリクを見つめると、彼は困ったように両手を挙げて見せた。


「申し訳ないんだけど、本当にどれも分からないんだ。ごめんね」

「いえ……」


 首を横に振って取り繕うが、頭の中は混乱している。
 意味が分からない。
 エリクが、本当に自分と同じ人間であるのか、信用出来る存在なのか全く分からなくなった。

 距離を置こうとすると、エリクは苦笑を滲ませる。けれども、何も言わずにそれを甘んじた。


「カイチュウデントウを貸してくれるかな。僕が調べてみるよ」

「……どうぞ」


 注意深く懐中電灯を手渡すと、エリクは小さく謝罪して、部屋の中を探索し始める。

 謝られたことに若干の戸惑いと、若干の罪悪感を感じつつ、佐代子もエリクから離れて物色した。
 だが、病室にはサイドボードやベッド、破けたカーテンにトイレと洗面台くらいしか無い。探せるところと言えばいやが上にも限られる。

 ……トイレは、調べたくないなあ。
 何かと怪談の多い場所だ。
 されど佐代子はその場所に近いし、彼女が調べるべき場所はもうトイレだけになっている。
 洗面台の上に取り付けられた、ひび割れた鏡に映った自分にびくつきながら、佐代子は意を決してトイレのドアノブに手を伸ばした。

 掴んで、捻る。
 勢い良く開けた。

 そして――――愕然。

 悲鳴も出なかった。
 口を押さえて後退すれば、すぐに壁にぶつかる。
 それにも驚いて腰を抜かし、ずりずりと座り込んだ佐代子はしかし、目の前の光景から目が離せなかった。

 縄があった。
 麻で出来ているらしいそれはぶらぶらと、《吊り下げた物》と共に左右に揺れていた。

 どうやって縄が取り付けられているのか分からない。知りたくもない。

 それよりも、何よりも。
 縄が《吊り下げた物》が恐ろしかった。

 慄然(りつぜん)とする佐代子を不審に思って、エリクが小走りに寄ってくる。
 側に屈み込み佐代子の視線にある物を見上げ、彼もまた言葉を失う。

 ぎぃ、ぎぃ、と縄が軋む音がする。
 縄が軋むだけの重量のそれは。

 それは。

 ソレ、は――――。


 首を吊った男だった。


 腐敗した見るも無惨な顔は苦悶に歪み、今にもそのしなびた口からおどろおどろしい呻吟(しんぎん)を漏らしそうだ。
 到底見れたものではない。
 それでも、佐代子の目は縫いつけられたかのように男の遺体から離れない。腐敗しているのに腐敗臭のしない、生まれて初めて見る遺体から。

 すると、エリクが佐代子の身体を揺さぶった。


「この部屋を出て移動しよう」

「え……?」


 一瞬、彼が何を言っているのか理解出来なかった。
 エリクが呆けた佐代子に言い聞かせるようにもう一度ゆっくりと繰り返し、ようやっと思考が働く。


「そ、外にはあの女の人がいるのに……?」

「でも、ここにはいたくないよね。僕も、この部屋にいつまでもいれば正気を失ってしまいそうだ」


 エリクの言うことはもっともだ。この空間でおぞましい遺体といるよりは、危険を伴ってでももっと安全な場所を探し、そこを拠点に今後を思案した方が余程建設的だ。
 それに、この遺体が動かないとも限らない。ふとした拍子に動き出し、佐代子達を襲ってくるかもしれない。そうなればこの狭い部屋に逃げ場は無かった。

 ここに残るのと、外に出るのと。
 この状況下ではどちらが最善かなんて考えるまでもなくて。

 佐代子は怖ず怖ずといった体(てい)で頷いた。

 エリクは微笑んで佐代子の肩に手を回し、支えながら彼女を立たせた。


「あの女性以外にも化け物がいるかもしれない。見つけたらすぐに逃げるから、はぐれないように僕の手をしっかりと握っていて」

「はい……」

「大丈夫。君のことは僕が守るよ。――――と言っても、君は僕に怯えているようだけど、ね」


 「ごめんね」ともう一度謝罪されて、佐代子は居たたまれなくなって視線を床に落とした。



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