病院 | ナノ









 目覚めても視界は真っ黒だった。
 佐代子は上体を起こして重い頭を軽く振った。
 ぼんやりと申し訳程度に利いた夜目を頼りに周囲を見渡してみると、その部屋が何処かの病室か寝室なのであろうと言う憶測は立った。

 けれども佐代子にそのような部屋に入った覚えは無かった。自分の寝室はもっと広いし、丸窓があって畳が敷き詰められた和室だ。ベッドなんて物は無い。
 立ち上がるとふらりと足元が覚束なくてよろめき壁にぶつかった。
 壁に寄りかかりながら歩くと、すぐに引き戸に到達する。

 病院の個室……なのかもしれない。
 外に出て、夜勤の看護師に会えれば何か分かるかもしれない。きっと記憶が無いだけで何かしらの目的があってこの病院と思われる建物の中にいるのだ。
 そう自身に言い聞かせて佐代子は、静寂に沈んだ廊下に出て、非常口の仄かなランプに照らされた道を壁に寄りかかりながら進んだ。

 暫く歩けば足も感覚も戻り、しっかりと歩けるようになった。
 己の足音も、先程に比べると一定で危なげない。
 佐代子は周囲を見回しながら内心首を傾げた。

 佐代子には入院の経験があった。幼い頃は病弱で小学校に通っている間は特に入退院を繰り返していた。
 その生活の中で、ままに冒険心から消灯時間を過ぎた病院の中を探検しては看護師に見つかって怒られていた。
 だが、幼少の記憶だとしても、この病院の雰囲気は異様だった。

 何が、なんて明確なものは分からない。
 けどもここは異質で不穏だと頭の片隅で誰かが警鐘を鳴らしていた。
 ここ、何処なんだろう……本当に病院?
 実は病院じゃないとか?
 じゃあ、ここは一体何処なんだ。
 ぶわりと芽吹いたのは不安と恐怖。得体の知れない場所に一人放り出された寂寥感。
 せめて場所がはっきり分かれば、まだ楽だったのに。
 把握出来ない己の状況に、全く心当たりが無い自分の記憶に、思わず自分の身体を抱き締めて足を止めた。

 後ろを振り返っても、廊下が黒に呑まれていくその光景だけ。むしろ果てが無いように思えて余計に辛いだけだ。
 佐代子はぎゅっと目を瞑って深呼吸を二度。
 そして瞼を開いて背筋を伸ばした。恐怖を押し込めて、歩き出す。
 とにかく場所がはっきりしないのならそれを調べよう。人に会えれば御の字だ。

 佐代子は真っ直ぐ歩いた。大きく手を振って、前方を睨んで。そうでもしなければ、また思考が恐怖に併呑(へいどん)されてしまいそうだったのだ。それに賢明に抗い、宛もなく、ただただ真っ直ぐに歩く。


 すると。


――――カツ……カツ……。

 酷くゆっくりとした足音が前方から聞こえてきた。
 えっとなって足を止めると足音は不意に速度を上げる。まるで佐代子に気付いて歩みを速めたかのように。
 この建物を管理している人かもしれないと気体に膨らんだ胸は、頭の中で否定する声に強引に萎まされた。
 危険。
 逃げろ。
 この足音から逃げろ。
 心臓が跳ね上がり、早鐘を打つ。
 佐代子は訳も分からず頭を押さえた。危ないと感じる根拠も分からないのに、どうして逃げなければならないのだろう。
 かまびすしい警鐘を五月蠅く思いながら佐代子はその足音の主を待つ。

 それが間違いだったのだと気付くまで――――そう時間はかからなかった。


「え……」


 佐代子は青ざめた。足音の主の姿を認めて。

 身体自体が薄く発光しているのだろうか、いやにその姿は鮮明に見て取れた。
 女性の看護師だ。桃色の生地に赤い花を点々と咲かせ、すらりと細い足を交互に動かしてさながらモデルのように歩く。今時、女性の看護師はほとんどスカートを履かないようになっている筈だが、薄桃色のナース服の上からでも整ったスタイルが分かった。
 きっと綺麗な女性だったのだろう。

 けれども、惜しい。
 何故なら――――。



 その女性の首は直角に折れ曲がっていたのだから。



‡‡‡




 佐代子はつんざくような絶叫を上げた。
 半歩退がり身を翻して駆け出す。

 後ろで錆び付いた鉄をこすり合わせたような不快な声が聞こえた。いや、これを声と判断することすら恐ろしい。
 女性は逃げる佐代子を追いかけた。ニタニタと、獲物を見つけて喜んでいる女性は真横に倒れた頭をぐらんぐらんと揺らしながら、しかししっかりと走る。視界だって真横だろうに、どうしてそのようにしっかりと走れるのだろうか。

――――そもそも、どうして生きているのだろう。

 有り得ない、有り得ない、有り得ない!!
 間近で見た現実を強く強く否定する。これは夢だと、逃避に縋った。
 だが、走るうちに感じる息苦しさは紛うこと無く本物で。廊下に放置された椅子を蹴りつけて感じた痛みは確かなものだった。

 何なのよあれ!?
 これではまるでホラー映画だ。

 非現実的な現象。
 現実に起こる筈のない現象なのだ。
 こんなこと、あって良い筈がない!!
 佐代子は恐慌状態に陥っていた。もう頭の中には逃げることしか無い。

 出来るだけ遠くに逃げて、何処か部屋に逃げ込もう。扉を閉めて息を潜めてやり過ごせれば、きっと――――。
 数ある扉を通過し、手頃な場所を探す。
 駄目だ、もっと離さなくっちゃ。
 振り返ればまだはっきりと目視出来る程の距離に女性はいる。諦める様子など微塵も無い。

 ……引き離せるだろうか。
 後ろ向きな感情に足が重くなる。
 駄目だと分かっているのに不安が四肢に重りを付けた。

 が。

 昇降口が見えたところで不意に右手の扉が開き手が伸びた。
 それは佐代子の腕を掴み部屋に引きずり込む。
 悲鳴を上げようとした開いた口は背後から回った手が塞いだ。


「静かに」


 少し高めの少年の声だ。
 叱りつけるような鋭いそれに佐代子は身を強ばらせる。


――――カツカツカツ、カツ、カツ、カツ、……カツ……カツ……


 足音が遅くなる。
 そして、この部屋に入ること無く、徐(おもむろ)に確実に離れていった。

 聞こえなくなって、ようやっと佐代子は解放される。少年が背後で嘆息し、髪を擽った。


「……ひとまずは大丈夫そうだね」

「あ、の」

「ああ、ごめん。苦しかったかな」

「いえ……すみません」


 身を離して向き直る。
 けれどあの女性とは違って彼は発光しておらず、輪郭がぼんやりと見えるだけだ。

 表情が分からないのは、怖い。
 そう思って少しだけ距離を置くと、少年の手元が急に光を放った。
 反射的に視線を落とし、瞠目する。

 懐中電灯だ。


「ここで拾ったんだ。初めて見たけど、便利だね」


 懐中電灯の光が少年の姿を照らし出す。

 金髪赤目の少年は、佐代子に微笑んだ。

 それに、佐代子は全身から力が抜けていった。
 視界が滲んだ。



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