参
そこに死体は無かった。
澪は周囲を見渡し、その場に座り込んだ。
寄りかかった岩にはべったりと赤黒い液体が染み込んでいる。血だ。
それを労るように優しく撫で、ほうと吐息を漏らした。
元々、この岩の側には粗末な祠の如き建物があった。今は解体され、使われることの無い木材が整然と積み重ねられているだけだ。
澪は岩を抱き締めるように凭(もた)れ、目を伏せた。
漣は黙してその側に控える。
どれ程そうしていたのか。
微動だにせず、健やかな呼吸だけを繰り返す澪を徒人(ただびと)が見れば眠っているのではと勘違いしてしまいそうだ。
澪は睫毛を震わせて瞼を押し上げる。顔を上げて周囲を見渡す。
死体は誰かに、何処かに埋められたのか、打ち捨てられたのか。
……きっと、後者だろう。
人間は死ねば他者から見れば異臭放つ邪魔な肉塊でしかない。しかもあの見てくれだ。土蜘蛛だと気付くだろうし、余程命を尊ぶ者でない限り、土蜘蛛の死体を退かすのに情なんて持つ筈がない。
微かな風が、僅かに鉄の、血の臭いを帯びているように感じられたのは錯覚だ。
しかもそれは浪太達の血の臭いではない。
大昔に嗅いだ、自分達の血臭だ。
「……蔑まれながらも、逞しく、ふてぶてしく生きていく。誰に強いられた訳でもなく、己らの信じるものを揺るがぬ拠り所、正義とし、人の定めたに過ぎぬ現人神(あらひとがみ)に背を向けた獣道を行く。それが、土蜘蛛と言う存在、土蜘蛛と言う生き方――――」
澪はそっと漣に手を伸ばした。
漣が顔を寄せるのを優しく撫で、愛でる。そして、穏やかに語りかける。
「ねえ……漣。もしも《私達》が現世の人間だったら、きっと彼らと同じく土蜘蛛と呼ばれていたでしょうね。……いえ、今の私達も十分土蜘蛛かもしれません」
だって、私達は、帝ではなく鬼に忠誠を誓っていた村に生まれたのだから。
澪は漣の首に腕を巻き付ける。獣の身体を抱き締め、艶やかな毛に頬をすり寄せる。
人間は、そら恐ろしい生き物だ。
私達は身を以てそれを知っている。
この心に、頭に残る《傷》は、永遠に消えはしない。
「人間は斯(か)くも浅ましい……」
痛みを堪えるように、激情を抑え込むように、澪は声を堅くひきつらせる。
けれども。
今は人間の中に在るのがとても心地良かった。
ここはあの村とまるで違っていた。
誰も、×××為に澪達を××××にしようとしない。
××を××××して、×××へ投げ込んだりしない。
村人と同じ人間の世である筈なのに、ここでは、存在が許されている。
よしや、源信達の思う澪が正確には今の自分ではないと分かっていても、とても嬉しかった。
《妹》も、ここにいたら泣いて喜んだだろうか。寂しがり屋の、大事な家族も――――。
澪は漣の身体を一つ撫でて身を離した。
元は祠だった木材を前に、大きく息を吸う。
両手を広げて、開いた口からささやかな歌声を流した。
言葉は無い。送るべき言葉など無い。
ただただ冥福と輪廻の向こうの幸福を祈る歌声だけが、遊んでくれた土蜘蛛の少年への手向けだった。
思いのままに歌われる鎮魂歌。
それを聴くのは、漣だけだ。
‡‡‡
ライコウに黙って内裏を抜け出した。
内裏にいるとどうしても息が詰まって考え事もままならない。外を歩いていけば、きっとじっくり考えられる。
そう思ってのことだった。
和泉はぶらりと雑踏の中を歩き、たまに擦れ違う顔見知りと笑顔で挨拶を交わす。
その間にも考えるのは、皇位継承が迫った現実。自分の近い将来。
今まで考えないように、目の前のことばかりを追いかけて暮らしてきた報いだろうか。急速にそれは迫り、決断を強要する。
拒む選択肢は生まれた時からありはしない。
嗚呼、《彼》よりも遅く生まれていれば……そんな無責任な考えはただの現実逃避。
何処までも今に愛着を持つ自分に、呆れる。
一人苦笑して、市場に寄ってとある店の主人に頼んでおいた物を受け取る。それを袂に忍ばせて向かうのは、左京の廃屋。人が居なくなって二・三年程度の邸だ。建物自体は整理すればまた使えるが、庭で好き勝手生えた雑草や、枯れた池などは整備に時間と手間が掛かりそうだ。
無人の邸の築地に空いた穴を身を屈めて潜り敷地内に入った和泉は、足を止める。
……人の、少女のきゃらきゃらとはしゃぐ高い声が聞こえる。
どうやら先客がいるようだ。
知り合いの子供だったら良いんだけど――――内心呟いて庭へと出た。
そして、静止した。
「――――」
一匹のアヤカシと、沢山の小鳥達と。
彼女は踊るようにじゃれ合って笑っていた。
「あっ、待って! そっちは駄目!」
伸ばされる手をひらりと交わし、からかうように小鳥達は少女の周りを飛び回る。
少女もそれが楽しいらしく、身体を捻ったり飛んで身体の向きを変えたり、軽快な舞を見せながら捕まえようと手を振り回す。漣はその側を飛んで移動するだけだ。恐らくは彼女が転倒した時に対処出来るようにだろう。
その姿が獣ではなくただの少女であることは、見るも明らかだ。
和泉はその場から動けなかった。
歩み寄って話しかけるのは簡単だ。理性の強い澪と話してみたいと思う。けれど、そうすると彼女が逃げてしまうのではないかと、そんな不安が胸中をよぎって行動を制限した。
そのまま所在なげに立ち尽くしていると、小鳥達の方が彼の来訪に気付いたようだ。一斉に向きを変えて襲いかかってきた。
肩に頭に止まっては鳴いて催促してくる小鳥達を宥め、懐から見世の主人から貰い受けた物――――鳥達への餌を地面へばらまいた。
同時に待ってましたとばかりに鳥達は一斉に群がった。
やれやれ……と肩をすくめ、羽を払いながら澪に目をやる。
だが、彼女も漣ももうそこにはいなかった。
逃げられた。
それが、彼女に拒絶されたような気がして、和泉は眦を下げて目を伏せた。
ずっと可愛がっていた獣にそっぽを向かれた――――そんな風に思ったからか。
胸の奥が小さく痛んだ。
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