弐
澪の願いは単純で漠然としたものだった。
ただ都の中を見て回りたい、そう解釈して良いかと訊ねればそれで構わないと彼女は答えた。
それに現世だなんて……まるで澪は現世の人間ではないような言い方だ。確かに糺の森に重なる異界で育ったって言う話だったけれど、それでも現世の人間であることに変わりないのではないだろうか。
市場やその周辺を避けて、なるべく人の往来のある道を選んで歩いていると、澪は気になった物があれば彩雪に訊ねた。普段の獣の澪の時に得た知識はちゃんとあるようだが、こちらの澪はその詳しい部分を知りたがった。
こちらも、賢(さか)しいように見えて実際は何も知らないらしい。面食らいながらも、赤ん坊から糺の森で育ったという話だったからその所為かな、くらいにしか彩雪は思わなかった。ただ、さん付けや様付け、丁寧な言葉遣いに少し戸惑うだけだ。すぐに慣れてしまうだろう。
側で観察していると、純粋に驚いたり感心したりする澪からは沢山の類似点が見つかった。
一番意外で面白かったのは、食べ物に強く興味を引かれている姿だ。食い入るように凝視するそれは普段の澪と本当にそっくりで、思わず笑みがこぼれてしまった。それに、澪は恥ずかしそうに、恨めしそうに睨んできたけれども。
話してみて、本当に良かった。彩雪は思う。
何だ、ちゃんと澪だ。賢くなって、お淑やかになっただけの澪だ。食べ物に対して物凄く食い付くし、子供達の遊びにも興味津々だし、そして気になったらふらりと何処かへ行ってしまう。
前向きに考えていたことが、本当になってたまらなく嬉しかった。
彩雪はいつしかいつもの澪と接するような心地で澪の隣を歩いていた。
澪も、たまに握った彩雪の手を大事そうに見下ろし、安堵したような笑みを浮かべる。
きっと、彼女も怖かったのだ。困惑しているだろう仕事人達と顔を合わせるのが。
周囲をきょろきょろと見渡す澪を眺めながら、彩雪はふと頭に引っかかりを覚えた。
……。
……。
あれ?
「……ねえ、澪」
「はい。何でしょう」
「澪って、朝からずっとそんな風だったの?」
晴明は確か昨夜目覚めればいつもの澪に戻ると言っていた。
だのに今ここにいる澪は、理知的で。鏡の力があるから不安定ではないとも言っていたような覚えがある。
今この姿でいられるのはどうしてだろう?
疑問をぶつけてみると、澪は儚げに微笑んだ。漣を見下ろし、穏やかに答える。
「昨日鏡から貰った力が身体に残っていましたから。本当は糺の森で使ってしまおうと思ったのですが、漣が自由になれるのは今のうちだけだからと。勿論、朝目覚めた時は、いつもの、あなた方の良く知る姿でございました。源信様も、ご安心しておられました故、彼の前では戻れなくって」
「戻る……ってことは、こっちが本当の澪ってこと?」
「……ごめんなさい」
澪は申し訳なさそうに頭を下げる。彩雪の言葉を肯定した上で、彩雪達の知る澪が本当でないことを謝罪する。
彼女は、彩雪達にとっての澪は自分ではないと分かっているのだ。
だから彩雪とかち合った時も謝罪して立ち去ろうとしたし、彩雪の言葉に戸惑ったのもその所為だ。
ざわりと、罪悪感。
彩雪は澪の手をぎゅうっと握り締めた。澪が痛がるくらいに、強く、強く。
「あの、彩雪さん……」
「だっ、大丈夫! 多分……じゃなくって、絶対!」
澪は瞬きを繰り返した。やがてふわりと微笑んで、悲しげに目を伏せる。
「人の心は、皆が寛容という訳ではないのですよ、彩雪さん」
「え……どういう意味?」
問いかけても、澪は答えなかった。力の抜けた彩雪の手を離し、くるりと身を翻す。
「もう大丈夫。十分すぎる程現世を見れました。楽しかったです……とっても」
久し振りに、《昔》に戻れたような気がして。
理解しかねる彩雪を振り返って頭を下げた。
「これよりは、晴明様のお側に。あの方はとても悲しい方。《皆様》のお気持ちを知らぬまま苦しんでおられます。どうかあなたが、お側で……」
言いさし、澪は首を左右に振って止める。漣と共に歩き出した。彩雪が呼び止めても、彼女は止まらなかった。ただ、その背中があまりにも寂しそうで、悲しげで……泣いているようにも思えて。
何か悪いことを言ってしまったかと不安に思う間にも、彼女の小柄な姿も、漣のどっしりとした体躯も、雑踏の中に消えていく。
大丈夫って言われても……あれじゃとても気になるよ。
やっぱり追いかけようと踏み出そうとすると、後ろから肩を引かれた。
びくりと身体を震わせて振り返った彩雪は、見知った姿に力を抜く。
「げ、源信さん……」
「こんにちは、参号さん」
安堵したのもつかの間、ひやりとする。
今の澪、見られてなかったよね?
慌てて澪達を振り返り、その姿が無いことを確認する。
「え、えっと、源信さん。こんにちは」
「お散歩ですか?」
「は、はい! やることが無くて……あ、でもそろそろ邸に戻ろうかなあ、なんて……」
誤魔化しつつ、たははと笑う。自分でも分かる。顔がひきつっていると。
源信は不思議そうに彩雪を見下ろし、ふと視界を上げた。周囲を見渡すような仕種をし、
「先程澪と一緒におられたようですが……見間違いだったようですね」
「えっ。あ……見間違いじゃありませんよ? さっきたまたま会って一緒に散歩をって思って……あ、漣も一緒でした。もう、何処かに行っちゃいましたけど」
「ええ。漣も一緒に出て行きましたからね。彼がいるなら安心ですね」
彩雪はほっと息を付く。良かった、澪の様子までは見られてなかったようだ。
でもこのまま澪を捜すことは難しい……かな。
もう彼女の姿は何処にも無い。どの方向へ向かったのかすら定かではなくなってしまった。
「じゃあ、わたし邸に戻ります。源信さんは何処かへ用事ですか?」
源信は首を左右に振った。苦笑を浮かべる。
「いいえ。……もしかしたら、昨日の澪と話せないかと思いましてね。のんびりと捜していたのですよ」
「昨日の……」
「ええ。朝は元の澪だったので、替わっている可能性は低いだろうとは思っていましたが、彼女と、少しでも話してみたくて」
さっきまで、昨日の澪だったんですよ。
そう言うことは出来なかった。
けれど、心の中で澪に語りかける。
仕事寮の人達はやっぱり大丈夫だと思うよ、絶対。
親代わりの源信だって、彩雪と同じことを考えている。だったら彩雪以上に類似点を見つけられるだろうし、受け入れてくれると思うのだ。
密仕の時に、もう一度言ってみようかな。こっそり、だけど。
「……良いと思います。とても」
そう言うと、源信はふんわりと慈父の如き笑みを浮かべる。
「どうやら参号さんには、先を越されてしまったようですね」
「え……」
彩雪が青ざめると、源信は笑みを深くした。
「会ったのだから、そのような顔をなさるのでしょう?」
「う……はい。嘘ついてごめんなさい」
「いいえ。ですが、一つだけ訊かせて下さい」
あなたは澪のことをどう思っていますか?
この問いに、彩雪は返答に迷うことは無かった。何もかもに興味を持っていた姿を思い出しつつ、うっすら笑って答える。
「どっちも同じ澪だって思ってます。源信さんなら多分、わたしよりも強くそう思えますよ」
「……そうですか」
源信は、ふにゃり、と笑みをやや崩した。
初めて見たかもしれない。
少しだけ情けない笑みは、何処か娘との距離感に困る父親のようだった。
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