各々に澪について考える時間と、休息をということで、急遽常仕はお休み、となった。

 初めてになるだろうゆっくりとした時間をどう過ごそうか――――いつもとはちょっと違う一日に浮き足だった彩雪は鼻歌に合わせて歩いていた。勿論周囲に人影は無い。人の往来がある中でこんな恥ずかしいことが出来る程彩雪は図太くはなかった。

 さあ、今日は何をしようか。
 市場をゆっくり見て回るのも良いし、普段は行かないような場所まで足を延ばしてみるのも良いかもしれない。
 徒(いたずら)に色んな予定を考えるのも嫌ではなかった。こんな風に考えるだけで密仕まで過ごすのも、悪くない。

 澪について混乱した頭は、一睡すればある程度は落ち着いた。
 また彼女に変われば戸惑うだろう。けれど一睡した今、彩雪は改めて考える。

 理知的な、姫君然とした澪は、確かに不気味に感じられた。
 でも――――あの時、彼女は地蔵和讃を歌った。アヤカシ達を憐れむような優しくも悲しい響きを持ったそれは、彩雪の耳にも残っている。決して嫌な感覚は無かった。
 今だからこそ冷静に考えられるのだろう。怖くもなければ自分も安らぎめいた穏やかな心地になれた。
 今の彩雪と同じ気持ちになったから、アヤカシ達も澪に大人しく従い、抵抗せぬまま影に引き込まれたのだとしたら。

 あの時は戸惑いと雰囲気との大きな差が相俟(あいま)って怖かっただけで、本当はあの時の澪にわたし達が混乱する必要は無かったんじゃないだろうか。
 そんな前向きな思考をしたのは、そんな願望があるからだ。今更、都合が良い思考回路だろうか。

 まだ出会って数日だけれど、彩雪は、澪が好きだ。
 あの純真無垢さは正直羨ましくもあるし、彼女に精神的に助けられたことだってある。それに何となく守ってあげたくなるような、幼気(いたいけ)がある。
 そんな澪を、疑ったりなんてしたくなかった。

 あの時の澪とよく話してみれば分かる筈。
 もし今夜密仕であの澪になったら、思い切って話してみよう。
 そう、心の中で決意を固める。

――――その時である。
 それは誰かが彩雪の決意に答えたのか、それともただの偶然なのか。


「あ――――」


 目の前の角から澪と、もう下調べを終えたらしい漣が曲がって、彩雪に背を向けて歩く。

 彩雪は反射的に足を止め、小さく彼女の名を呼んだ。

 囁く程度のそれが聞こえた訳でもあるまいに、澪の歩みが止まる。ゆっくりと振り返って、抗えぬ引力放つ目で彩雪を捉えた。
 丸く、見開かれる。


「……!」


 彩雪は彼女の表情を見て瞬時に察した。

 彼女は獣の澪ではない。あの時現れた、理性的な澪だと。



‡‡‡




 まさか決意した直後に現れるとは思わなくて、彩雪は緊張から身を堅くした。

 彩雪の様子を怯えと取ったらしい。澪はふんわりと柔らかく、しかし寂しげに微笑むと、口の動きだけで謝罪をして深々と一礼をした。再び背を向けて歩き出す。
 漣は彩雪を一瞥するだけに留めて、澪に従った。

 ……もしかして、傷つけた?
 彩雪はさっと青ざめた。慌てて走り出す。


「まっ、待……って!!」


 背後から澪の腕を掴み、強引に引き留めてから前に回り込む。

 澪は目を真ん丸に見開いて、薄く口を開いて固まった。誰もを惹き付ける目が、戸惑いに揺れる。
 漣が彩雪の足下に座るのに「ちょっとごめんね」と断って、澪をまじまじと見つけた。


「……昨日の澪、だよね?」

「……」


 澪は瞬きを繰り返し、やがてやおら頷いた。

 ……いや、それは分かってたじゃないか。
 自分にツッコむ。獣の澪があんな人間らしいことが出来る筈がない。

 彩雪は待ったをかけて一度深呼吸を挟んだ。

 そして、澪を見据え、肩をがっしりと掴む。


「……え、えぇと……」

「ちょっと、わたしと話そう!」

「えっ?」


 これは好機だ。今澪と話して理解しよう!
 そう思って話った言葉は、澪を怯ませてしまったらしい。さっきまで以上に困惑している。首を傾けて助けを求めるように漣を見下ろす。
 だが、漣は彩雪の動向を見守っているだけで澪を助けようと言う素振りは全く無かった。

 澪は諦めたように細く吐息を漏らした。
 言葉を選びながら、彩雪に問いかける。


「あのぅ……彩雪、さん? 失礼ですが、寝ぼけてらっしゃいますか?」

「え? ううん。ちゃんと寝たよ」

「……混乱、されておられるのでは?」


 気遣うように、恐れるように、恐る恐る顔を覗き込んでくる。丁寧な言葉遣いに違和感を覚えないのは、顔つきまでもが違うからだろう。


「うん。だから、密仕の時にでもちゃんと澪と話したいって思ってたところだったの。そうしたら、目の前に澪と漣が現れてびっくりして……」

「私と、話したい……」


 心底存外そうに、澪は反芻(はんすう)する。頬が紅潮するのは、嬉しいからだろうか。


「うん。……嫌かな? それとも何か用事?」

「……」

「……澪」

「……っ」


 呆けたようになっていた澪ははっとしてぶんぶんと首を左右に振った。
 らんらんと輝いた目に、今度は既視感。
 ああ、これいつもの澪もよくしてる目だ。
 こんなところで、類似点見っけ。

 彩雪はそれにほっとして、澪の手を握った。
 これはまたと無い機会かもしれない。今日を使って今の澪のことを知れば、そしてそれを源信達に話してあげれば、少しは皆の戸惑いを払拭出来るかもしれない。

 よし、と自分に気合いを入れて、彩雪は早速走り出した。

 が、その足はすぐに止まってしまう。


「彩雪さん、何処へ――――」

「――――あ、そっか」


 行き先をどうしようか全く考えてなかった。
 彩雪は立ち止まって澪を振り返った。


「澪は何かしたいことは無い? わたし、ただぶらぶらしようかなってくらいしか考えてなかったから、何かやりたいことがあったらそれを優先するよ?」

「私がしたいこと……、私は……」


 澪は顎に手を添えて思案する。
 暫し考え込んで彼女が出した答えは、至極単純なものだった。


「私……現世を見て回りたいです。……ああでも、市場や源信様達とは接触せずに」



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