――――光が、勢いを失う。


「……和泉」


 晴明が彼を呼ぶ。

 次第に薄れていく聖なる光は、鏡へと収束した。
 光が失せればまた不気味な暗い邸の中だ。ただ、空気だけが異様なままだ。

 和泉は澪を片腕で抱き留めていた。鏡は和泉の手には無い。澪がひしと抱き締めていた。


「……終わったぞ」


 晴明が、吐息混じりに言う。

 和泉は目を伏せ、深呼吸を一つ。思案深げに鏡を見下ろす。
 ややあって、いつもの笑みを張り付けた。


「ここに三種の神器のひとつ。八咫鏡を手に入れることが出来た。みんな、ご苦労様」

「宮、おめでとうございます。……ですが、澪が」


 ライコウが苦々しく和泉の腕の中の澪を見下ろす。

 澪は気を失っているようだ。先程の現象で何か衝撃を受けてしまったのかもしれない。けども和泉が鏡を取ろうとするとその腕は微動だにしなかった。念の為調べてみるが、異常は無いようだ。

 和泉は苦笑し、ライコウを見上げて首を左右に振った。


「……気に入っちゃったのかな。眠っちゃってるみたいだけど」

「すぐにでも起きるだろう。念の為、お前が連れていろ。痩せぎす娘くらい抱えられるだろう」

「……いや、澪は拙者が」

「いや、良い。ライコウは周りの警戒を。多分――――」


 澪を抱き上げ、和泉は元来た道を振り返る。すっと目を細めた。
 ライコウもはっと表情を変えて刀を抜く。腰を低く屈める。
 壱号も掌に炎を生み出し、暗闇を睥睨(へいげい)した。

 漣も、壱号の隣で唸りを上げる。


 それに重なるように、人ならざる耳障りな声がした。


 彩雪が青ざめ、舞布を抱き締めた。


「な、なんなの……?」

「……どうやら、放っておいたアヤカシや付喪神のようですね」

「え? で、でも……」


 周囲を見渡し、アヤカシの唸り声に戦慄する。無数に重なる唸り声に空気は一気に冷え込んだ。

 じわり、じわり。
 闇の中から異形が彩雪達に迫ってくる。明確な殺意が彩雪を威圧した。

 どうしてこんなことになっているの……さっきまで、わたし達を襲う気配なんて無かったのに。


「神器の力というものは人の意思によって発揮される。本来ならば、ひとりでに漏れ出すような危険なものではない」


 淡々と、晴明は言う。

 彩雪はますます混乱した風情で瞳を揺らした。
 じゃあ、どうして付喪神は生まれたのか。

 そして、この状況に何の関係が――――。

 彩雪の顔を見て、晴明は小馬鹿にするように口角をつり上げた。


「本来なら……、そう言っただろう? 神器に施された封印というものは、自然のものではない。無理やり押し込められた力はどうなると思う……?」


 試すような口振りで、問いを投げかけてくる。

 彩雪は晴明の言葉を反芻(はんすう)し、思案する。


「えっと、封印をされていたからこそ漏れ出していた、ってことですか?」

「何の影響もない微弱な力として常に発散されていたものがとどめられたことにより、ほころびた封印からあふれ出していたのだろうな」


 ……ええ、と。


「……それで、力がなくなったのに、何でこんな状況になるんですか?」


 それなら逆の状況になるような気がするのだけれど。
 肌を刺すような殺気は、ひしひしと迫ってくる。力が失ったのに、彼らが収まる様子は全く無く、むしろ荒々しく不穏だ。


「この邸に存在する付喪神は長い年月をかけて生まれたものではない。だからこそ、その力は不安定だ。そんな付喪神から鏡を取り上げればどうなるか――――答えはふたつにひとつ」


 あれらは、鏡を取り戻そうとしているのだった。
 失いかけた力を再び得ようと八咫鏡を貪欲に求めている。その激情が暴走として現れているのである。
 彩雪は息を呑み青ざめた。

 こんな狭い空間ではこちらが圧倒的に不利だ。唸り声は前後から聞こえてくる。完全に挟み撃ちだ。
 思わず晴明に寄り添ってしまう。


「……戦うしかない、か」


 和泉がライコウに庇われながら、呟いた。


「害がないなら捨て置こうと思ったけど、……そうも行かないみたいだ」


 和泉は憐憫の籠もった眼差しをアヤカシ達に向けた。


――――その時である。


「――――ならば、私が終わらせて差し上げましょうか」


 笑いを含んだ愛らしい声が不穏な闇に響いたのは。



‡‡‡




「澪……?」


 和泉が見下ろしてくるのに、彼女は身動ぎして腕から降りた。

 くすくす、くすくす。
 この場に不釣り合いな笑声をこぼしながら澪は踊るようにライコウの脇をすり抜けた。ライコウが止めようと腕を伸ばすが、それを風に舞う衣のように軽やかに避ける。
 ライコウを振り返って、軽く握った拳を口元に当てて笑う姿は普段の彼女のそれとは全く違う。打って変わって、大人しい姫君の如く、たおやかだ。

 頭部を覆い隠す頭巾を落とした澪は、引力を持つ瞳に理知的な光を湛える。
 完全な、別人であった。目の前の彼女は自分達の知る澪なのかと、誰もが唖然と言葉を失った。
 澪は八咫鏡を指でつうっと撫でると背後のアヤカシ達に向き直る。さり気なく、音も無く漣がその足下に寄り添う。

 そして――――。


「いらっしゃい」


 アヤカシ達の間を、堂々と歩き始めたのである。
 源信がキツく呼び止めても澪は足も止めず、振り返りもしない。ゆっくり、ゆっくりと、アヤカシ達を誘うように勿体ぶって歩いた。

 暫くして、アヤカシ達が動く。
 和泉達を無視し、足下をぞろぞろと澪へと近付いていった。鏡に惹かれているのか、澪に惹かれているのか……ただ見ているだけの彼らには分からなかった。
 アヤカシ達がついて来ることが分かったのか、澪は歌うように言葉を紡いだ。


 これはこの世のことならず
 死出の山路の裾野なる
 賽の河原の物語
 聞くにつけても哀れなり
 二つや三つや四つや五つ
 十にも足らぬみどりごが
 賽の河原に集まりて
 父上恋し 母恋し
 恋し恋しと泣く声は
 この世の声とは事変わり
 悲しき骨身を通すなり


 賽(さい)の河原の地蔵和讃だ。
 誰かを憐れむように、または誰かを愛でるように、慎ましやかに歌う。
 拙(つたな)い言葉遣いではなく、滑らかな歌声はいっそ不気味だ。
 澪が別の何かに変じてしまったようで、彩雪は戦(おのの)きその場から動けなかった。

 晴明が嘆息し、歩き出す。


「追うぞ、源信」

「――――は……、ああ、そうですね。すみません」


 呆気に取られていた源信ははっとし、少し慌てて晴明の後に続いた。
 彩雪達も、彼らの会話で不動の呪縛が解けたかのように、それぞれ足をぎこちなく動かす。


 かのみどりごの所作として
 河原の石をとり集め
 これにて回向の塔を積む
 一重(いちじゅう)積んでは父のため
 二重(にじゅう)積んでは母のため
 三重(さんじゅう積んではふるさとの)
 兄弟我身(きょうだいわがみ)と回向して


 歌は、まだ続く。



‡‡‡




 雑草に覆われた庭に立った澪と漣の前には、無数のアヤカシ、付喪神が集っていた。
 襲う気配は無く。澪の言葉を待つように沈黙していた。

 異様な光景だ。平凡な顔つきの非凡な目をした少女が神器を持って鵺を従えているその立ち姿を、異形の者達が拝んでいるようにすら見えた。

 澪は晴明達が追いついたのに気付くと、ふんわりと、真綿のように柔らかな微笑を浮かべ首を僅かに傾けて見せた。
 有り得ない。普段の澪なら絶対に出来ない人間の、まるで姫君の表情だ。

 事態に追いついていけない彩雪達を余所に、晴明は訳知り顔で澪に話しかける。


「お前はまだ不安定なのではないのか」

「……ここに、鏡がございます故に」


 彼女は囁くように答える。
 晴明は「そうか」と短く返すと、腕を組んで傍観を決め込んだ。怪訝そうに源信が晴明を呼ぶが、視線で制した。

 澪は源信に一礼し、鏡を撫でた。

 すると――――鏡面から淡い光が再び溢れ、澪の身体を包み込む。


「さあ……お還りなさい。哀れな仔らよ」


 言い終わるや否や。
 光が失せ、彼女の足下から漆黒の影が急速に広がった。

 影は異形達を囲うとぐねりと蠢き、無数の腕を至る所で突き出した。優しく異形達を包み込んで影の中へと引き込んでいく。アヤカシも、付喪神も、皆抵抗はしなかった。一瞬見えたアヤカシの顔は、安堵したように穏やかにも見えた。

 全てが影に呑み込まれる。
 最初から何もいなかったかのようにしんと静まり返る庭は寂寥の風を吹かした。

 引き込むモノが無くなった影はまた急速に澪の足下へと戻る。

 澪はそこで、静かに目を伏せた。脱力しその場に倒れる。ごつっと落下した鏡が地面に浅い穴を穿(うが)った。

 源信がすぐさま駆け寄って小さな身体を抱き上げるのを認めた晴明は、身を翻し和泉を呼んだ。


「戻るぞ。目が覚めればいつもの獣だ」

「晴明……説明は無しかい?」

「こいつが獣の状態で説明する訳にはいかぬのでな。放置したとて害は無い」


 晴明は大股に歩き去る。
 困惑した風情の源信が昏睡状態の澪を抱き上げて和泉の前に立つと、足下の漣が銜えた鏡を釈然としていない和泉へと差し出した。


「……ありがとう、漣。君も、さっきの澪のことを知っていたんだね」

「……」


 漣は謝罪するように、こうべを垂れて小さく鳴いた。



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