弐
澪は彩雪と手を繋いで、仕事人達の後に続いた。
行き先は右京にある廃れた邸。件の、付喪神が多く目撃されるのはその付近だそうだ。
びゅうびゅうと吹き荒ぶ夜風にの音が、得体の知れない化け物の怨嗟の唸りのように聞こえて、彩雪は知らず澪に身を寄せた。
風が顔にぶつかり俯くと、澪がふと「赤」そう呟く。
えっと彼女を見やれば、視線は上へ向けられていて。
ゆるりと雲が流れ行く夜空。漆黒に染めあげられたその中に浮かび上がる月は、何とも不気味だ。澱んだ赤――――何かどす黒い感情に呑まれいていくかのように浸食されていく。もう半分も、食われている。
日に日に削られていく様は、何かを待っているようで、不穏であった。
月が全て食われたその瞬間に、世界が終わってしまうかのような……嗚呼、ぞっとする。そんなこと、怖い。
澪も、これが見えてるんだ……。
澪は目を細めて薄く唇を開いた。ぼそぼそと何かを呟くが、小さすぎて聞こえなかった。
「なあに、澪」
「……」
澪は彩雪を見上げ、こてんと首を傾ける。
今のは気の所為だったのだろうか。
彩雪は澪と同じように首を傾げ、それ以上気に駆けることは無かった。
暫く、沈黙した右京を歩いていると、
「宮、あそこです」
「参号、澪をこっちに」
「あっ、はい!」
彩雪達にまでちゃんと聞こえるように、ライコウが声を張る。
和泉に呼ばれて先頭まで行くと、ライコウの持つ松明に照らされ無惨に壊れた築地が眼前に現れた。ライコウでも楽に通れるくらいの大きな穴が開いていた。
澪は彩雪と共に和泉の隣に並ぶと、瞬きを繰り返した。
「何か感じるかい?」
「……」
澪は和泉を見やり、また築地の向こう側へ視線を戻す。
ややあって――――彼女は彩雪の手を振り払って駆け出した。漣もそれを追いかける。
「澪!」
彩雪は咄嗟に追いかけた。けれど足の速い澪には誰も勝てない。彩雪が追いつける筈もなかった。生い茂る庭を抜け邸に駆け込み瞬く間にも奥へと姿を消してしまう。
必死に追いかけようとした彩雪は、しかし階(きざはし)に足をかけた直後に後ろから腕を捕まれた。ライコウである。
彼は厳しい眼差しで邸の中を睨めつける。
「多いな……」
「え?」
ライコウの言葉に、視線を邸の中へと戻す。目を凝らして暗闇を睨めば、その中にうごうごと身動ぎする生き物を見つけた。それも、大量に。
ひやり。背筋が冷えた。ライコウが寸前に止めてくれて、本当に良かったと心底思う。入って気付いたら、悲鳴を上げてしまいそうだ。
ライコウは彩雪の前を行く。己の愛刀の柄を握り、大股に、微かに聞こえる澪の足音を追いかける。ライコウの重みがかかる度、ぎし、ぎし、と床が悲鳴を上げた。何かが腐ったような異臭は誇りっぽく、不安感を煽ってくる。
ライコウの後ろにつき、肩を縮め舞布を抱き締めた。
澪は、まだ見つからない。何かを見つけたのだろうけれど、これでは連れてきた意味が無かった。
と、足下を何かが駆け抜ける。てててて、と軽快な足音に彩雪は身体を跳ね上がらせた。
かと思えば、すぐ側で小さな壷が転がる。風も無い、斜面も無い、ぶつかった覚えも無く、左右に動く。
付喪神……だよね?
「……多いな」
追いついた壱号が、先程のライコウと同じ言葉を漏らす。
「えぇ、それも付喪神だけではないようですね」
源信が同意する。周囲を警戒しつつも、彼は邸の奥を見つめている。澪達のことを心配しているのだろう。漣がいるから、大丈夫だろうとは思うけれど。
沢山の付喪神の中に、獣が変形したような化け物の姿も見受けられる。源信の言う通り、アヤカシの姿も見受けられた。こちらも数は多い。
けれど、動きはするもののこちらに敵意を向けてはいない。
「襲いかかったり……はしないね」
「うん、敵意はないみたいだね。害がないようなら、わざわざ倒す必要もないかな。このまま澪と合流しよう。もう、足音が聞こえてこない」
和泉に言われ、そう言えばと耳を澄ませる。本当だ、足音が聞こえない。何処かで何かを見つけて立ち止まっているのだろう。早く合流しなければ。
和泉がライコウを呼び、仕事人達は先へと進む。何処まで行っても、アヤカシも付喪神も襲っては来なかった。
内部を進んでいると、何処かで足音が聞こえてきた。二つ重なったようなそれは、きっと澪達のものだ。
それが何処か確かめようとすると、ふっと空気が変わった。埃っぽくて、臭かった筈の空気は清浄になり重苦しい雰囲気もふわっと軽くなった。まるで、神域に迷い込んだかのような――――けれど、この突然の変化は却(かえ)って異様だ。
簀の子の角で彩雪が足を止めると、不意に影から大きな影が飛び出してきた。
反射的に源信が間に入り込み、影を抱き留める。険しかった顔はすぐに驚きに強ばった。ややあって、聞き慣れた不吉な鳴き声。
「澪」
源信が呼ぶと、源信が抱き留めた影は顔を上げ、強い引力を放つ双眸を細めた。
横から彼女を覗き込むと、何かを両手で大事そうに抱えている。
「澪? 何を持っているんです?」
「鏡ー」
澪は源信から離れると、ぱたぱたと和泉に駆け寄った。
両手で差し出したのは――――大きな鏡。
磨き上げられた鏡面に和泉の顔が映り込む。
清浄な空気の中心はそれであると、誰もが感じた。
「なんや、ずいぶん古い鏡やなぁ」
「……新しい神器なんて、胡散臭いだろ?」
「せやけど、わいは新しい方がええわぁ。そや、わいを映すにふさわしい、テカテカのごーじゃすな鏡がええなぁ!」
軽口を叩く弐号に壱号は呆れ顔だ。
一瞬だけ弛んだ空気は、晴明が澪に歩み寄ることで自然と引き締まった。
「……少し緩んでいるようだが、どうやら封印がかかっているようだな」
「封印?」
「あぁ、神器の力を封じ込めるものだろう」
「……それがゆるんできたせいで、付喪神が出てきた、ってことかな?」
「まぁ、そんなことだろう。澪が見つけられたのもこの影響かもしれん。――――おい、神器を噛もうとするんじゃない!」
ぺし。晴明の扇が澪の頭を叩く。神器を食べ物だと勘違いしたのではないだろうが……お腹が空いてるのかもしれない。
彩雪は澪の頭を撫でて宥めた。
「それで、この封印は解けるのかい?」
「少し待っていろ。澪。鏡を私に向けろ」
澪は瞬きを繰り返し、鏡を持ち上げた。鏡面を晴明に向ける。
晴明は一歩近付き鏡に手を翳(かざ)す。早口に、歌うように詠唱を始める。ややあって、ゆるりと腕が動き、細く長い指を以て宙に模様を描いていく。それは素早く、複雑だ。
その一連の動作はさながら歌いながら舞うかのよう。
彩雪は澪の肩に手を置いたまま、晴明に魅入った。
その途中で、澪は唐突に歩き出す。
和泉の前に立ち鏡を差し出した。一瞬、違和感を感じたが、彩雪はそれを気にも留めなかった。
和泉は鏡を見下ろし、沈黙する。ゆっくり左腕を持ち上げた。鏡へと、延びていく。
すると――――どういうことだろう。
その指先が近付けば近付く程、柔らかな光が鏡自身から放たれるのだ。それはこぼれるように周囲へはみ出し、粒子となって宙に舞う。まるで、雪の如く。
澪が鏡を和泉の手へと近付けた。
触れる。
途端、箍(たが)が外れたように、怒濤のような光が彩雪達の視界を覆い隠した。
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