「これは、お茶、ですよ」

「ぉしゃ?」

「惜しい! しゃーやのうてちゃーや」

「ちゃー」

「ええ、そうです。お茶」

「おちゃー」

「伸ばさなくて良いんですよ」

「おちゃ?」


 澪の教育は難航を極めた。
 彼女は人間の言葉をなかなか覚えられない。
 奔放なので興味を持てば大内裏の中だろうと勝手に歩き回って行方不明になってしまう。
 そして人間社会の常識が無いので目を離せば売り物に手を出そうとする。これはさすがに漣が止めてくれるので、未だ検非違使(けびいし)の世話になる事態は免れている。

 如何せん無の状態から、赤子が周囲を見ながら身につけることを教えなければならないのだ。
 獣の言葉しか話したことが無いが故に人語の発言を知らぬ。短い言葉を教えるにも、一日に幾つも教えるとその分前に教えた言葉を忘れてしまう。時折覚えさせた言葉を復習させながら時間をかけて新しい単語を覚えさせると言うのは、なかなかの根気の要る作業だった。

 澪達を拾った晴明は端から源信達に任せるつもりらしく、我関せずを貫いている。
 ライコウもライコウであれこれと気を遣ってはいるものの、未だ澪の警戒は解けないでいた。

 ここ一月程で彼女がちゃんと理解したことと言えば、弐号が食料でないということだけだった。だが、それでも弐号が気に入ったのか暇さえあれば抱きかかえていたり、口寂しい時に弐号の羽を甘噛みする。痛くない限り、弐号も諦めて許していた。


「では、これは何でしょう」

「かぶ」

「正解です。では、これは?」

「すず」

「あー、ちゃうちゃう。これはな、石、っちゅうんやで」

「い、し?」


 源信と弐号に言葉を教わる澪を、少し離れた場所で和泉とライコウが眺める。
 和泉も基本的にあの輪に加わるのだが、ままにこうして微笑ましそうに見守りもしていた。

 和泉の傍らには漣が伏せている。目を閉じてはいるが、しっかりと音を拾って彼女らの様子を探っていた。


「なかなか上手く行かないね」

「……やはり、無理があるのでは?」


 不安そうに和泉を見やる。

 和泉は微笑んだまま澪を見つめ、目元を和ませた。


「ねえ、ライコウ。そろそろ分かってこない?」

「は……何がですか?」

「澪、食べ物の名前だけはちゃんと覚えているんだ」

「食べ物……だけですか」


 可愛いよね、と笑声を漏らす。
 澪は食べることがよほど好きらしい。食べている時は少しだけ嬉しそうに見えるのでつい、和泉も菓子を与えてしまう。


「源信もそれが分かってきたから、最近は食べ物を優先的に教えているみたいだよ」

「いや、しかし……もっと別の言葉を覚えさせた方がよろしいのでは」

「良いんじゃないかな? 焦らなくても。焦って、澪が勉強を嫌いになっちゃったら大変だ」


 澪は今のところ言葉を覚えるのを嫌がっている節は見受けられない。
 けれどもこちらが焦って厳しくした結果逃げ出してしまわないとも限らなかった。
 澪に合わせて教えた方が、余程効率が良いのだ。


「澪、これは?」


 と、不意に今まで晴明の側で傍観していた壱号が歩み寄り、弐号を指差す。

 澪は緩く瞬きして、一言。


「にごー」

「ほな、こいつは?」

「いちごー」

「では、わたくしは」

「げんしん」


 源信が示した漣や和泉、そして晴明も、澪はきちんと答えた。が、しかし。ライコウを指されると口を閉じて顔を背けた。
 ライコウががっくりと肩を落とすのに、晴明が鼻で一笑した。

 こうして常仕後に澪に言葉を教えるさなか、澪をライコウに慣れさせようとするも、なかなかどうして上手く行かない。
 漣の方でも諭したりはしてくれているらしいが、漣を害されると思ったらしい彼女は頑なにライコウに心を許そうとしなかった。ライコウが菓子を差し出しても絶対に受け取らないのだから、これは筋金入りだ。


「……宮。もう諦めた方が良いのでは」

「それじゃあ、ライコウが可哀相だろう。大丈夫、何とかなるさ」


 和泉は片目を瞑って、意気消沈するライコウの肩を軽く叩いてやった。



‡‡‡




 源信は澪の手を引いて朱雀大路を歩いた。
 和泉に貰った干菓子を食べながら澪はすれ違う者達を観察する。その足元にはぴったりと漣が付いていた。


「さて、夕餉は何をしましょうか」

「ゆーげ?」

「そうです。良く覚えていましたね」


 頭を撫でると、目が少しだけ細まる。瞳が和んでも、力だけは変わらなかった。

 彼女の目の力に《もしや》と思ったことも少なくない。
 されど、今までの彼女の様子を見ているとどうにもそうではないようだ。
 何の能力も無い、ただただ人を強く惹き付けるだけ。たったそれだけの目だ。

――――いや、それだけの力でも、十分厄介な問題を引き起こしかねない。

 惹き付けると言うことは当然、人攫いにも遭いやすいということだ。漣がいるのだから心配は無いだろうが、人間社会の何もかもを知らぬ彼女を一人にしては危険だ。何も分からぬまま、売り飛ばされてしまう可能性が高い。

 窶(やつ)れた細い手をしっかりと握り締め、源信は家路を急ぐ。
 澪に知恵を教える時間を作った為に、私塾の開く時間が短くなってしまっていた。出来るだけ、急いで戻らなければならなかった。

 とはいえ、澪もあまり速く歩くと足がもつれてしまう。全裸で森の中を駆け回っていた彼女には、人間の装束は着慣れない、異質な邪魔者でしかなかったのだ。せめてもの気遣いに裸足を許しているが、もっと動きやすい着物を用意すべきだったかもしれない。
 今度、和泉と相談してみようか。
 そんなことを、ふと考える。

 ……しかしそれは、もっと常識を得てからにした方が良さそうだ。
 今の澪では、着物はとかく不快な物でしかない。新しい着物を買い与えて無理に着替えさせても、自由な世界で生きてきた彼女は嫌がるだけだ。
 今は何事にも興味を持ってくれているから、源信達の言葉に耳を傾けてくれているものの、いつ嫌気が差してもおかしくはないのだ。

 自然に受け入れるまで、待つ他無い。
 澪を見下ろすと、漣がこちらを仰いでいることに気が付いた。
 目を合わせて微笑みかけると、彼は猿の頭を下げる。まるで人間が会釈しているかのように。
 その仕種から謝罪を汲み取った源信は緩く首を左右に振った。

 すると、漣は不吉な声で、申し訳なさそうに鳴くのだ。
 澪の傍で彼女の世話を甲斐甲斐しく焼き続ける鵺――――アヤカシ。
 この一人と一匹に関して、感じる疑問は多い。

 が、しかし。
 今は、その全てを追求しようなどと全く思わなかった。



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