牛車から降りてきた内親王からからはとても良い匂いがした。和泉とは違う匂いだ。
 緩く波打つ艶めいた髪を風に踊らせながら土手の方まで降りてきた内親王は間近で見るとまるで白磁の陶器のように肌が白く、そして肌理細かい。そんな肌に良く映える、真っ赤でふっくらとした唇は小さくとても愛らしい。

 彼女は和泉の遠縁に当たるらしい。遠縁なだけあって、和泉とは全く似ていない。
 ライコウにキツく言われて土手に大人しく座っていた澪は、和泉に連れられて来た内親王をじっと見上げた。

 内親王は澪の目力を初めてその身に受ける。鼻白んで澪から一歩後退した。ちなみに、彼女には漣は見えない。そのように漣が気を配ってくれているのだ。

 澪に怯んだ彼女を大丈夫だと宥め、和泉は澪の隣に腰を下ろした。


「ほら、姫も隣にどうぞ?」


 内親王は躊躇した。着物と雑草の生えた地面を見比べる。けども和泉が笑いかけるのに、意を決して「……失礼します」と着物を気にしつつ腰を下ろした。

 和泉はそれを視認し、土手に上体を倒した。心地良さそうに目を伏せて後頭部にて手を組んで空を仰いだ。


「ふぅ……、さすがに疲れたね」

「あの……、申し訳ありません」


 内親王は眦を下げて謝罪する。

 和泉は片手を振って文句は言っていないと弁解した。
 彼にしてみれば、ただ遠出をするだけで単純な仕事だ。むしろ楽だと感じているだろう。

 澪は二人のやりとりを黙って眺め徒(いたずら)に足をばたつかせた。下方の川に行きたくて仕方がなかった。


「ライコウじゃないんだから、もっと肩の力を抜いていいんだよ?」

「――――宮、呼びましたか!?」

「おっと……聞こえたみたいだ」


 牛車に控えたライコウの声に、和泉は驚いたように目を丸くした。悪戯っぽく笑って内親王と顔を見合わせた。
 かと思えばライコウを振り返って、


「ライコウもこっちに来て休んだらどうか、って話してたんだ!」


 と、嘘をつく。


「拙者は周囲の警戒に当たりますので、宮はゆっくりと休んでいてください。それと、澪が何処へも行かぬよう目を離さずにお願いします」

「わかったよ。ありがとう」


 和泉は内親王と澪を見て、口の前に人差し指を立てて見せた。
 澪が真似をすると楽しそうに笑声を漏らす。

 そこで、内親王が和泉をじっと見つめているのに気が付いた。
 切なそうで、悲しそうで、熱っぽくて。
 そんな目は初めて見る。
 内親王をじっと見つめていると、彼女が澪の視線に気付いてはっと息を呑み袖で赤らんだ顔を隠した。

――――いつだったか、こんな風に顔を赤らめて恥ずかしそうに隠れる女を見たような気がする。
 あれは……そうだ。彩雪が仕事寮に来る前に弐号と遊んでいる時のことだ。
 男と向かい合って言葉を交わし、恥ずかしそうに赤い顔を隠した。男はそれを嬉しそうに抱き締めていた。
 それがどういうことなのか分からなくて眺めていると、弐号に窘められたのだ。


『ええか澪。ああいうのはそーっと、見ないフリをしておくべきなんやで。場の雰囲気を壊してしもたら、二人の中も悪うなってまうかもしれん。……まあ、まだまだ澪には難しいかもしれへんけどなぁ』


 そうか。邪魔をしちゃいけないんだ。
 これはそーっと、見ないフリをしておくべきことなのだ。
 そう理解して、澪は立ち上がる。和泉が呼ぶのに言葉を返さずに漣と共に土手を駆け下りた。

 茂みを飛び越えて川原に立ち、きょろきょろと周囲を見渡す。
 川は浅い。溺れることはあるまい。
 ぱしゃぱしゃと水を跳ね上げて川に入った澪は岩をひっくり返して蟹(かに)を見つけ手に取った。真っ赤な鋏(はさみ)は大きく、澪の手を挟もうともがいている。その様子を眺めていた澪は、ふと上で円を描いて飛ぶ大型の鳥を見つけて蟹を元の位置に戻した。鳥に手を伸ばす。


 ピーヒョロロ

 ピーヒョロロロロ……。


 甲高い鳴き声を上げながら旋回する鳥は鳶(とび)だ。
 澪に気付くと急降下して腕の中に収まる。頭を撫でてやるとうっとりと瞼を閉じた。
 岸に上がって近くの岩に腰掛けた澪は大人しい鳶の身体を撫で、漣を呼んだ。
 澪を追って川から上がった彼は澪の側に伏せる。澪はその背中に鳶を乗せた。蛇と猿、鳶の顔がこちらを見た。澪は足をばたばたと動かしつつ、三つの顔を順に見た。

 かと思えば何を思ったか、蛇の尾を指差し、


「蛇」


 次は鳶へ。


「鳶」


 そして最後に猿の顔へと移動する。


「猿。蛇、鳶、猿ー」


 繰り返して、お前は何て言う種類なのか知っているんだと主張する澪に、漣は一声鳴き、蛇の尾を揺らめかせた。
 褒められたのだと分かって澪は漣に抱きつく。心地よい身体に頬ずりすれば鳶が飛び立った。

 鳶、飛んだ。呟く。悠然と飛翔する鳶を見送り、立ち上がった。また川に入る。

 水を蹴り上げれば日光を反射してきらきらと輝く。その様に瞳を輝かせてもう一度、もう一度、と何度も何度も繰り返した。毎回毎回輝き方が違うのがとても面白い。
 けれども、やはりあの光の人の髪には敵わない。これは川に戻ってしまう。でもあの人はずっと光を持っていた。とっても綺麗な光の髪を。

 もう……会えないけれど。
 澪は両手を見下ろしてしゅんと肩を落とした。もう一度触りたかったし、一緒に双六も出来ない。

 片手を天に翳すと、丁度太陽と掌が重なった。少しずらして指の隙間から光を見る。……自分が触りたいのはこんなに強烈な光じゃない。
 唇を尖らせていると、後ろから名前を呼ばれた。

 振り返ると、和泉が漣と並んで川縁(かわべり)に立っていた。


「ずっとそうしていると、目が見えなくなってしまうよ」

「目、見えなく、なる?」

「そう。ほら、おいで」


 そ、と手を出され、澪は駆け足に和泉に駆け寄った。手を取って見上げる。

 彼は、とても嬉しそうな顔をしていた。



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