――――ここで、少し時を遡ろう。

 自分の意識が何かに包まれるような感覚は暫く続いた。
 収まるまでその場に留まって目を伏せていると、晴明が怪訝そうにこちらを呼んでくる。
 それにも反応せずに収まるのを待ち続けている澪の足に、漣が寄り添う。不吉な鳴き声を漏らして澪を気遣わしげに見上げた。

 ……収まった。
 ゆっくりと瞼を押し上げて瞬きを二度繰り返した。首を傾けて晴明を振り返った。暫く無言で周囲を見渡し、漣を見下ろす。


「知らない、場所」


 襞(ひだ)を成す晴明の袖をくんと引っ張って答えを求める。

 晴明は眉間に皺を寄せて澪を見下ろした。つかの間思案し、


「出仕した――――いや、和泉達に会った覚えは?」


 澪は素直にかぶりを振って否と答えた。朝の散歩でも来たことの無いらしい場所に不安でも感じたのか、晴明に抱きついて周囲を落ち着かない風情で見渡している。
 この敷地に充満していた気は篁(たかむら)が祓った故に澪がそれを気にかけることは無いだろう。

 いや、それよりも、だ。


「……記憶が無いのか」


 恐らくは、朝から今までの記憶が。
 最近の澪の身に何か変化が起こっている。それも普段の澪が自覚していない部分で、急速に。
 少しだけ乱暴に澪の頭を撫で晴明は冥府井の方を見やり、彼女を剥がして歩き出した。


「戻るぞ、澪」

「……ぐー」

「食事は源信に頼め。私は知らん」


 腹が減ったと訴えてくる澪の頭を軽くはたきながら、晴明は脳裏で先程得られた情報を整理する。他者に話さぬことを条件にして語られた、とても重要なこと。
 澪がどういった存在であり、澪にとって漣がどんな存在であるか、澪に関わる要点を知った晴明は、条件が無くとも彼らに話す気は毛頭無かった。

 何せ――――。



 事が鎮まれば澪も漣も、この世で生きてはならないのだから。



 その事実を、仕事人達が今のうちから受け止めきれる筈がない。
 見方を変えれば、すなわち澪達が犠牲になるということ。

 ならば時が来るまで話さぬ方が事が円滑に進む。


 事後報告でもすれば、責められるのは自分だけだ。



‡‡‡




 途中、澪はとある方角を見て右手の築地に飛び乗った。漣もこれに従う。


「どうした、澪。何か見つけたか」

「……泣き声」


 そう呟いた彼女は、晴明を見下ろしもせず瓦を蹴って駆け出した。

 瞬く間に遠退く姿に、晴明は細く吐息をこぼす。
 けれども恨み言は言わずにそのまま大内裏の方へと歩いた。

 彼女には漣もついて行った。昨夜のようなことにはなるまい。それに行き先も目的も、方向から大方の予想はついている。
 では漣がいなければ己がついて行ったのか――――ということになるが、これもまた否である。

 仮に追いかけたとして、澪の抜きん出た身体能力に晴明が敵う訳がないのだった。



‡‡‡




 呻吟(しんぎん)が聞こえる。
 それは全てが女性のもので、憎悪は深く、悲しみは冷たく、耳を傾ける無関係な者すらもそちら側に引き込んでしまいそうだ。

 一条戻り橋の欄干から身を乗り出して下を覗き込むと、そこには柱に引っかって水に揺れる男性の遺体。苦悶に見開かれた眼窩から今にも眼球がこぼれ落ちそうで、あんぐりと開けた口は入り込んだ水が口内で逆流している。

 男が憎い。

 男なんて。

 男なんて。

 男なんて。

 男なんて!


―――――あんなにも、胸の内で燃えさかる炎に心が狂(たぶ)ろう程に、愛していたのに!


 何故……何故……何故、わたくしを捨てた!?

 どす黒い激情は澪の身体に巻き付き、撫でつける。
 同じ女のあなたなら分かるでしょうと語りかけてくる見えない触手は、頬を撫でて同情を乞う。乞うて、澪の身体を奪おうとする。けれどもその力は微弱で、澪の身体を奪うには至らない。昼間であることと、澪には色恋の感情が一切分からないからだ。

 遺体の側には男に捨てられ悲嘆の果てに自ら命を絶った女達の嘆きが、群れを成している。一つ一つが生き物のように蠢いている。
 それが日中でも見えるのは澪だけだろう。

 川に住む何かが同調して、狂っていると感じられた。
 何か――――女だ。
 清らかすぎるべき女が、今はこれらに狂い、美しかった筈の神聖な姿は気味悪く変色しておぞましい化け物に変じている。そして、女達の恨み辛みを晴らさんともがいている。


「……女様」


 ぽつり。呟く。

 女様。
 女様が、あの男を殺したのだ。苦悶に苦しむ形相の、男を。
 無関係な男を殺したとて晴らせる訳もあるまいに……そうせずにはいられないのだ。

 この男にも、愛する女がいたのかもしれない。愛する子供がいたのかもしれない。大切な家族がいたのかもしれない。
 彼の死を知った彼女らは、泣いてしまうだろうか。殺した女様を恨むのだろうか。

 遺体を凝視する澪は、ふと北西を見やって目を細めた。


「死ぬ人……弔う、親しい、人」


 人は必ず弔わねばならない。
 健やかに眠れるように。
 安らかに黄泉の道を歩けるように。
 その人物を良く知る者達で手厚く心から冥福を祈って、終(つい)の旅路を見送る。
 そう、源信は言っていた。

 澪はひゅ、と息を吸って、駆け出した。

 漣を後ろに従えて築地に飛び乗り別の築地へと飛び移る。

 無表情のまま軽々と俊敏に動く彼女の行く先は北西。
 浪太と遊んだ、あの荒野であった。



●○●

 夢主が徐々に徐々に変化していきます。
 晴明は何を知ったのでしょうか……。



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