肆
一方、六道珍皇寺。
現世と隔絶されたような空間だ。人の手によって美しく手入れされた境内はしかし、それでも人の気配をまるで感じさせない。神主などがいる筈なのに、何処にもその気配が感じられなかった。
沈黙した空気は、冷たく肢体を突き刺してくる。かと思えばどろりと粘膜のように絡みついて来もする。
晴明はそんな中を気後れすることも無く、むしろ悠然と歩いていた。
彼の後ろには澪と漣が続く。大人しく無言で従う彼女らは、この場の空気に触れても何も言わない。彼女の目は何も見えていないのか――――そう思えてしまう程に無反応だった。
立ち止まって彼女を窺えば、何処か気持ちよさそうに目を細めて右手の林を凝視していた。その顔は年相応で、それもまた異様な様である。
朝からずっと、澪の様子がおかしいとは晴明も感じていたことだった。
《何とはなしに》菓子を懐に忍ばせていたというのに全く気付かず、晴明を見もしなかった。いつもならば食べ物の匂いには非常に鋭敏であるのに。
晴明は澪の様子を見つめ、しかし何も言わずに再び歩き出した。
すると、晴明の動きに即座についてくる。
目的の場所は一つ。
冥府井だ。
黄泉への入り口であるそれは嘗て小野篁(おののたかむら)が利用した物である。
石で作られた井戸に歩み寄り、井戸のそこに溜まった闇を見下ろす。
その横から、澪が縁に手をかけて身を乗り出した。覗き込もうとするのを「邪魔だ」とぞんざいに襟首を掴んで引き剥がした。
けれども一瞬だけ晴明は見た。
闇がぐねりと蠢いたのを。
まるで、澪がいつ落ちてきても良いように、腕を広げたかのようだ。
……黄泉の一欠片。
昨夜大型のアヤカシが澪に向かって言った言葉が脳裏に蘇る。
まさかとは思うが、この娘は元々は――――。
思案に耽りかけた晴明は、漣の声に中断し、井戸に向けて唇を動かし詠唱した。歌うように紡いだそれはどろどろとしたその場の空気を鈍く震わせた。ふわり、ふわり、と彼の長い髪が揺れる。
澪はその様を見つめながら漣の側に腰を下ろした。その些細な動作が《妙齢の女性》らしいことに、彼女に背を向ける晴明は気付かない。
それから暫くして、晴明の手から一匹の蝶が生まれた。白銀の光の鱗粉を周囲に蒔き散らすそれはふんわりと優雅に飛び立つと井戸の中へと身を投じた。
また時間を置くと、井戸から仄青い光が放たれ、人の声が聞こえた。
「何の用だ、晴明」
晴明は恭しく頭を垂れた。
「ご無沙汰しております、篁殿」
あの晴明が粛然とした態度で迎えたのは、一人の、長身の男だ。井戸から僅かに浮き上がって、秀麗なかんばせに笑みを浮かべる。彼の側には、先程晴明が放った白銀の蝶が舞うが如く羽ばたいていた。
小野篁は、少しばかり驚いた風情の晴明に笑いかけた。
「ずいぶんと久しいな、晴明。ところで、そちらの娘は――――」
そこで、彼ははっと息を呑んだ。愕然と、信じられない事象が目の前で起こっているかのような様子に、晴明は眉間に皺を寄せた。
「この気配……まさか、いや、そんなことが……!」
戦慄する彼に、澪が腰を上げる。
ゆっくりと歩み寄り、晴明の隣に立った。
すると、いよいよより篁の姿が鮮明となる。くっきりと、服の小さな皺ですら確認出来る程に。
異常なことだった。
この井戸にて篁と相対す時はここまではっきりとした姿ではない。輪郭も分からないくらい漠然としていて顔すら分からない。辛うじて性別が判別出来るくらいだ。
それなのに、澪がこの場にいるからなのか、篁の秀麗なかんばせが白日の下に判然と曝されている。
篁の目は、澪を捕らえて放さない。その目に宿るは安堵、歓喜、戸惑い。複数の感情が混ざり合って強ばった顔には冷や汗まで浮かんでいた。
晴明は澪に目を向けた。
彼女は篁をじっと見つめたまま何も言わない。足に寄り添う漣も、同様に篁を仰いでいた。
「……澪?」
怪訝に呼ぶ。
澪はやおら瞬きして晴明を見上げた。
目が合った瞬間――――意識を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
異様な引力に絶入しかけたのを繋ぎ止め傾いだ身体を正す。
澪の目だ。
引力が異常に増している。
何故、か。
この場に於いて何よりも奇異なる存在に、晴明は口を閉ざした。
呼べなかった。
安易に呼んではならないと、頭の何処かで警鐘を鳴らす。
今目の前にいる少女は、彼らの知る獣同然の少女ではないのだ。
では、何者なのか。
つ……と額を汗が落ちる。
黄泉の一欠片――――アヤカシの言葉が脳裏に繰り返しかまびすしく反響した。どくりどくりと早鐘も混ざり合ってひたすら不快だ。
澪はそんな晴明を見上げ、
口角をつり上げた。
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