参
己を奮い立たせて写本に取りかかったのは良かった。
……が。
「ぎゃぁ! わいのぷりちーな羽に! 墨がぁ!!」
「……」
……ぽたり。
筆から落ちた墨の玉が紙に染み込んだ。
彩雪は、頬をひきつらせた。
「っ、墨がつくだろ! 邪魔するな!」
「そんなこと言わんといてやー、見てやこれ! 黒くマダラなってもーたやんか!」
「知るか! 洗って来いよ!」
「なんや、なんや、つれへんやっちゃなぁ。参号もそう思うやろ?」
「……どうでもいいから暴れないで欲しいなぁ」
おどけているとしか思えない弐号の同意を求める声に返した彩雪の声音は、切実な感情を含んでいた。
彩雪がこめかみを痙攣させながら見下ろす紙の染みは、先程よりも倍近く大きく広がってしまっていた。
弐号は壱号の邪魔をし、その騒ぎで彩雪の集中にも水を差されてしまう。
源信の集中力が羨ましい。
ちらり、と彼の方を見ると、黙々と文字を写し続けている。
流れるような動きに、彩雪の中で焦りが生まれた。このままでは、源信一人が任務を達成したことになってしまう。
結局は何も出来ませんでした、なんて絶対に避けたかった。
早くしなければ!
筆に再び墨を付け焦りのまま筆を走らせようとし――――墨を紙面に飛ばしてしまった。
思わず声を上げてしまって、源信の集中を途切れさせてしまう。
……書き直し。
「どうかしましたか? 参号さん」
源信の言葉にも反応出来ず、彩雪は茫然と紙面を凝視した。
彩雪の様子に横合いから紙面を見、源信は苦笑を滲ませた。
「おや、墨が落ちてしまったのですね」
「すみません……」
急いでも空回っては意味が無い。
自己嫌悪に陥って肩を落とす彩雪に、源信は筆を置いた。
「……少しお疲れのようですね」
「え……?」
「根を詰めるばかりでは効率は上がりません。ちょっとだけ休憩しましょうか?」
彩雪はでも、と食いついた。休憩を挟めばそれだけ時間が押す。与えられた分を半分も終わっていないのに休むなんて出来ない。休んでも、今日中には終われないかもしれないのに。
言葉を発そうとすると、源信は慈父の如き笑みで押し留めさせた。
優しい源信がこちらを気遣ってくれていると分かる。
そうまでされて無下にすれば彼に申し訳なさすら覚えるだろう。
俯いて黙り込むと、源信は了承と取ったようでやおら腰を上げた。
「では、お茶でも淹れてまいりますので、みなさんは休んでいてください」
「わ、わたしが行きますよ?」
「いえ、こう見えてもわたくし、お茶を淹れるのは得意なんですよ? あの澪も、わたくしのお茶をとても気に入ってくれていますからね」
立ち上がろうとした彩雪の肩を、源信がそっと押さえて阻む。
それに従って腰を下ろせば源信は小さく頷いて手を離した。
彼の微笑みを見ていると、焦っていた心がゆっくりと薙いでいく。ほうと吐息が漏れた。
源信がお茶を淹れようと部屋を出ていくのを見送って、墨の方を一瞥する。ここで一旦、筆を置いて休憩することにした。
……そう言えば。
晴明様はどうして澪や漣を連れて行ったんだろう。
六道珍皇寺に、一体何の用があるんだろうか。
大丈夫、かなぁ……。
‡‡‡
「さあ、お茶を淹れてきましたよ。壱号さんも弐号さんもいかがですか?」
「おう! おおきに!」
源信が持ってきたお茶を飲み、弐号は表情を綻ばせた。
それを横目に、彩雪も湯気を立てる湯飲みを受け取った。
両手で包めば、じんわりと温もりが広がる。
ふ、と息を吹きかければ湯気は揺らめき歪んだ。
「お疲れですね」
「源信さん……?」
「あまり気負わずに、時々こうやってお茶でも飲みましょう? 一息ついて頭を休めれば、何か新しい発見があるかもしれませんよ?」
心の中で源信の言葉を反芻(はんすう)し、彩雪は湯飲みに口を付ける。熱い程の温もりを嚥下すれば、身体もじんわりと温かくなるような気がした。それに安らぎを覚え、全身から力が抜けていく。
ゆっくりと深呼吸して、もう一口。
と、源信が楽しそうに彩雪を呼んだ。
己の湯飲みを指差し、嬉しそうに破顔していた。
「ほら、茶柱が立ってます」
覗き込むと、もうもうと立ち上る湯気の中、淡い緑色のお茶の水面に立つ茶柱。
彩雪はふ、と表情を弛めた。
「きっと今日はいいことがありますよ?」
「ふふ、そうだったらいいですね」
「澪にも、見せたかったですね」
源信は茶柱を見下ろしながら、苦笑する。
それはさながら娘の安否を案じる父親のようで、何処か微笑ましく思えた。
澪は、仕事寮の皆から良く愛されている。
勿論彩雪も澪のことは好きだ。振り回されるけれど、それも後になれば許せてしまう。愛嬌のある不思議な娘である。……漣は、まだ正直ちょっと怖いけれども。
「大丈夫ですよ。晴明様や漣がついてますから」
そう声をかけると、源信は少しだけ驚いて、困ったように笑った。……違ったのだろうか?
「……ええ、分かっていますよ、それは勿論、わたくしが気にかけているのはそちらではないんです」
「そうなんですか?」
「はい。……けれど、わたくしの勘違いなのかもしれませんから、どうかお気になさらず」
微笑みながらそう言う源信に、彩雪は首を傾ける他無かった。
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