弐
大事に保管された書物の臭いは埃を孕み、咽がむずむずとする。
ずらりと並べられた大量の蔵書を前にして彩雪は軽い眩暈を覚えた。
途方も無い数の書物。
確かに、この中に『珍しい本』は紛れているかも知れない。だが、これを一つ一つ探すというのは……日が暮れてしまうんじゃないだろうか。
一人先行きに暗鬱としている彩雪を見やり、源信は苦笑めいた微笑みを浮かべた。
「では、わたくしは他の部屋を探して参りますので、みなさんはこちらをお願いしますね」
「は、はーい……」
まだあるのっ?
この部屋だけでも気が遠くなりそうなのに……。
本当に見つかるのか、不安になってきた。
部屋を出ていってしまう源信を捨てられた子犬のような顔で見送り、彩雪は本を見渡した。
頑張らないといけないのは分かっているけれど――――早くも心が折れそうだよ……。
彩雪が選んだのは、源信と壱号、更に弐号に当てられた依頼であった。
珍しい本を探して欲しいとのことだが、それ以外に具体的な指定は無い。要望が漠然としたものは難しいのだけれど、それも文句を言ったとて仕方がないことなのかもしれないと諦めた。
この依頼に弐号が加えられたのは、曖昧さを考慮して人手を増やす為だ。されどもこの蔵書量、弐号が増えただけで探しきれるかどうか……。
「ほな、早速探すで!」
気合いを入れるように、弐号が弾んだ声を上げる。
それに大きく頷いて自分に活を入れた彩雪は手近な本に手をかけた。
‡‡‡
もう、心が折れる寸前である。
「どう……ですか、と聞くまでもないみたいですね」
「あ……」
騒がしい部屋の中に、源信が入ってくる。呆れたような微笑を湛え、彩雪の隣に立った。
それに騒ぐ二人も気が付く。
「おう、源信やないか! 聞いてーや、壱号がわいのこと邪魔やとかいうて、蹴り飛ばしよんねん!」
彩雪は閉口した。
「何、勝手なこと言ってるんだ! お前が邪魔をするのが悪いんだろ!」
……うん、どっちも間違ってない。
弐号としては彩雪や壱号を鼓舞する為に踊っただけなのだろう。だがあの身体で足下を機敏に動き回られると危ないし、鬱陶しい。
せめてもうちょっと考えて欲しかったな。
遠い目をして乾いた笑声を漏らし、彩雪は眉間を押さえた。
「元気がいいのはとてもいいことだとは思いますが、……少しよろしいですか?」
直後である。
壱号の足が風を裂いた。
ひゅうっと風の鳴き声と共に、弐号の悲鳴が混ざり合う。丸い身体は蹴られた鞠のように本の山へと落下した。その衝撃で本が崩れ落ち、更に弐号の身体は潰されて埋もれていく。
……何だろう、この微妙な疲労感。
何事も無かったかのように源信に向き直った壱号は、何事か問いかける。
「えぇ、とりあえずちょうどいい本を見つけたので、ご報告に来たのですが……」
そこで、ちらと弐号の埋もれた山を心配そうに見やる。
本の隙間から覗く弐号の足は、じたばたと元気良く動いている。多分大丈夫だ。
「あいつのことは気にしなくていい。どうせそのうち戻ってくるだろうからな」
「な、なんやねん! 少しくらい心配してくれてもええやろぉ!」
その動きは非常に速かった。
一瞬にして本を跳ね退け勢い良く身を起こした。ばたばたと壱号の足下に駆け寄る。もう、彩雪でも展開が読めてしまう。
物憂げに嘆息する彩雪は、源信を見て軽く頭を下げた。一番迷惑をかけているのは、多分源信だ。一人で探して、見つけてきてくれたのに。、こちらはこの体たらく……申し訳ないと言ったら無い。
「ふふ、おふたりは忙しそうですね」
「すみません……」
「いえいえ、参号さんが謝ることではありませんよ」
「でも、本もろくに探せなかったので……って、そういえば、源信さんは見つけたんですよね? どれなんですか?」
源信は頷き、すっと本を差し出した。
それは少しばかり変わった本だった。
ここにある物のようにしっかりとまとめられてはいない。一見、ただの紙の束だ。これは、本とは言えないのではないだろうか。
「これが……ですか?」
「えぇ、さる女性の日記なのですが、ご本人に頼んだところ、少しの間なら貸して下さるということでしたので」
「日記……ですか?」
確かに、日記ともなれば本人以外の目には晒されないのだから、珍しいという条件は満たしているけれども。
でもこれ……本じゃない、よね?
本当にこれで良いのかな。
そう思って源信を見上げると、彼は微笑んで彩雪の視線に答えてくれた。
「面白い日記が写本されて、いろいろな方に楽しまれるというのは珍しい話ではありませんからね。これをまとめれば大丈夫だと思いますよ」
……なるほど。
心の中でほっと安堵し、源信の柔軟な考えに感服する。そんなこと、思いも寄らなかった。
「それじゃあ、早速依頼人のところに持って行きましょうよ!」
「えぇ、そうですね」
……っと、いいたいところですが。
源信は苦笑に変え、首を左右に振って「これをこのまま依頼人に渡すわけにはいきません」
彩雪はえっとなる。
と、側で呆れたようなため息が。
「お前……源信の話を聞いてなかっただろ? これは少しの間借りているだけだ」
「あ……」
そっか。そうだった。
思い出して声を漏らせば、壱号が馬鹿にするような視線をこちらに向けてくるが、何も言えない。
「ふふ、そういうことですので、写本しましょうか?」
「写本……って」
それだけの量を?
見るだけでも相当な量だ。どれだけの時間がかかるのやら……。
「なんや、めんどうやなぁ……」
「あ、弐号くん」
弐号の気の抜けた、落胆の声。喧嘩はもう落ち着いたのかな。
「ふふ、全員でやれば、日が暮れる前には終わりますよ」
「気の遠くなる話だな」
壱号は肩をすくめた。嫌そうな顔をする彼を、源信は穏やかに宥めた。
彩雪も、嫌ではないが、不安はある。
文字に自信が無いのだ。
ちゃんと書けるかな、と心の中で漏らして皆と一緒に文机の前へ腰を下ろした。
「では、参号さんは、この段落からお願いしますね」
日記を閉じていた紐は丁寧に解かれ、その一部が彩雪に手渡される。流麗な文字の走るそれを見、彩雪は口角をひきつらせた。
嗚呼、この重さで心が折れそうだ。
「では、できるだけ担当している枚数の写本を終わらせるようにがんばってくださいね」
「はーい」
そこで、源信の手元を見て瞠目する。
彼の分だけが、彩雪達に振り分けられた物よりもずっと多い。
何だか、物凄く申し訳なくなった。
……頑張ろう。
腑抜けた自分に再び活を入れ直し、彩雪は墨を手に取った。
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