いつも通りの朝。澪は源信に連れられて出仕する。
 彼女は一睡もしていなかった。北狄から感じた濃厚な血の臭いが頭か離れず、恐怖し、落ち着くことも出来なかった。ただただ漣を抱き締めて部屋の隅でうずくまっていた。

 源信も、身体のことを気遣いながらも無理に寝かしつけるようなことはしなかった。疲れているだろうに、澪と同様に起きて夜を明かした。
 一睡もせずにそのまま出仕した源信も漣も、昨夜の疲労感は全く表に出してはいなかった。

 けれども仕事人達には源信と澪、そして漣の様子は分かったようで。席について早々、口々に大丈夫かと問われた。
 それらに微笑んで応じた源信は、ずっと黙りの澪を見下ろして苦笑を浮かべて見せた。

 何となくだが、源信は澪に様子に違和感を感じていた。朝からずっと一言も話さないのだ。何を問うても、何を話しても、全てに無反応。漣に抱きついて怯えていた夜の様子とは打って変わって、無機質な岩のようになってしまっていた。
 まるで、今の澪が常なる澪でないような――――。


「源信?」

「……いえ、何でもありません」


 怪訝そうな和泉に、源信は首を横に振る。きっと、昨日の衝撃がまだ残っているだけなのだと自身に言い聞かせ、違和感を無理矢理に打ち消した。


「そう。それじゃあライコウ、説明を頼めるかい?」


 ライコウは頷き、一歩前に出る。
 そして常の通り、本日の仕事を三つ、説明しようと口を開いた。


「依頼の内容を説明する。今回も澪と参号殿は、好きな依頼を選んでくれ」

「……」

「あっ、はい、わかりました」


 澪は何も言わずに小さく頷いた。
 それに、ライコウ達も怪訝に思う。だが、説いたげな視線を澪に向けるだけで、そのまま説明に戻った。


「では、ひとつ目の依頼だが、これは晴明に……」


 そこで、晴明が待ったをかける。目を細めて澪を一瞥し、


「私は別に調べたい場所がある。そこへは澪と漣も連れて行く。急ぎの仕事ならば、こいつにやらせろ」


 開いた扇で彩雪を示し、ぞんざいに言い放つ。

 彩雪は呆れとも怒りとも諦めとも取れる筆舌に尽くしがたい複雑な表情をして肩を落とした。げんなりとした彼女に、和泉は苦笑を浮かべた。


「んー、別に急ぎの仕事ってわけじゃないから、何かあるなら晴明は好きにしてくれて構わないよ。さすがに、晴明の仕事を参号一人に任せるわけにはいかないからね。また別の機会に頼むことにするよ」


 また、彩雪が僅かに肩を落とす。けれども気を取り直して背筋を伸ばした。


「ところで晴明、好きにしていいけど、調べたい場所ってどこなんだい?」

「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)だ」


 六道珍皇寺とは。
 開基については諸説あるが、臨済宗健仁寺派の寺院であり、薬師如来を本尊とする。
 当時平安京の火葬場であった場所の入り口付近に位置していた為に、現世と他界の境にあると思われ六道の辻と呼ばれていた。
 『六道さん』と呼ばれる六道珍皇寺の閻魔堂には、かつて嵯峨の福生寺、そしてこの寺院それぞれの井戸から地獄に下っては閻魔の補佐を務めたという小野篁(おののたかむら)が制作したと思われる閻魔大王と自らの木造が安置されている。
 冥界と縁深いその寺に、彼は何を調べに行くというのか。そして何故、澪を連れて行くつもりなのか。


「安倍様。澪を連れて行く理由をお聞かせ願えますか?」

「……確証を得る為だ」

「それは、何の」

「それは、まだ話せぬな。澪自身、未だにまともな理解が出来ん状態だ。こちらで固めておくべきと判断した。時が来ればすぐにでも話してやる」


 源信は暫し沈黙する。
 本当なら、自らもついて行きたいのだろう。けれども仕事のこともあるからと、沈黙の後にやおら頷いた。


「分かりました。では、澪のこと、どうかよろしくお願い致します」

「ああ」


 源信が澪の背中を押すと、漣と共にとてとてと晴明に歩み寄り、その波打つ袖を掴む。
 ……やはり、今朝の澪は何処か変だ。
 別人のように思えてならない源信は暫し澪の様子を見つめ、瞼を押し上げようとする。が、それを阻むように晴明がキツく睨んで来た為に断念した。


「気をつけてね、晴明」

「あぁ」


 彼の告げた行き先から何かを察したらしい和泉は、思案深げな顔で晴明に頷きかける。


「私達はこれから発つ。これが寝てしまわぬうちにな」


 扇を閉じ、澪の頭を軽く叩く。うにゅ、と小さな声が漏れた。

 和泉が了承すれば彼は即座に、足早に部屋を後にする。澪も漣も、急ぎ足でそれについて行った。
 一瞬だけ源信を振り返る。


「――――」


 彼女は人差し指を口の前に立てて見せた。何かを伝えるように目を細める。まるで、余計なことは言うなと、源信を牽制しているようだった。

 多少の知性を感じさせる仕草を見たのは源信だけだったらしい。思わず腰を打かせると、周囲に不審がられた。


「どうかしたかい、源信。もし体調があるなら遠慮無く言って良いよ」

「……いえ、何でもありません。わたくしなら大丈夫ですから、どうぞ、続きを」


 取り繕うような笑みを浮かべて誤魔化し、再び腰を下ろす。
 ……何だったのか、今の仕草は。
 澪らしからぬ行動である。

 今日の澪は何かがおかしい。
 源信の中にあった疑念は、更に更に膨れ上がっていった。

 だが、彼以外に彼女の変化に気付く者は、誰もいない。

 そう、何故か。



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