賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は糺(ただす)の森。


「安倍様、糺の森に一体何があるのですか」


 源信は、穏やかな声音で前方を歩く晴明に問いかけた。
 全身を青で統一した姿は澄んだ水のように清らかだ。仏門に帰依する彼に相応しく、穢れ無い。
 まだ暗いうちに晴明に強引に起こされながらも常なる人徳溢れた和やかな彼に、晴明は傲岸不遜ににべもない。


「ついてくれば分かる」


 源信は困ったように眦を下げた。
 伏せられた目は、果たして見えているのだろうか。
 瞑目しつつ前進する姿は奇異であるものの、その身形故か、目が見えずとも物が見えていたとて何ら不思議ではないと、そう思わせる。

 源信が問いたいのは、目的地に関することの他に、もう一つある。

 晴明の腕に抱えられた、上質な女性物の着物だ。
 自分で買い求めたとは万が一にも考えられぬが、彼が所持しているだけでも非常に異質である。
 しかし晴明はそれを問おうとすると話を遮ってしまう。触れるなと言わんばかりに、だ。
 嫌々所持して糺の森に行くのにも何かしらの霊的な事情があるのだろうが、朝早く起こされて子細を語られぬまま、ただ彼に従う他無いというこの状況には、正直を言えば承伏しかねた。

 だが、目の前の男は一貫して話そうとしない。
 協力を命じた相手にすらひた隠しにする程のものが、あの糺の森の中にあるというのだろうか。
 源信は無意識に瞼を撫で、それに気付いて苦笑した。指を離して晴明の背中に向けて一礼する。
――――《力》を使うまでもありませんね。
 晴明は気の置けない仕事寮(しごりょう)の仲間だ。そんな彼に、どうして猜疑(さいぎ)を持てようか。
 無理矢理起こされて、多少なりとも気が荒立っていたらしい。
 浅はかな己を、叱咤した。

 そんな折。
 ふと、彼は一旦足を止めて歩き出す。

 森も、もう随分と深い。
 清廉な空気は闇となり、ようやく世界に訪れ始めたささやかな日の光すらも拒絶する森の奥は、しかし覚えてもいない母の胎盤の中のように心地よい。

 ここは隔絶された世界だ。
 人も滅多に入らぬ聖域は、そのままの美しさ、厳しさ、荘厳さを持ち、彼らにとっては矮小な存在である自分達を覆う。

 晴明は、開けた場所に至ると巨樹が佇んでいた。
 その様の、何と清純なるや。
 森の堂々と鎮座するその隆々とした幹には古びて苔むした注連縄をがっちりと締められている。

 幾らもこの姿を拝見してはいないけれど、きっとこれから先何度見ようとも、この母のように静穏で、子供のように無垢で、神のように厳存するこの巨大なる神木に、自分は圧倒され、心を洗われていくのだろう。


「……おや、」


 その幹の影から、ひょっこりと少女が顔を出した。

 年の頃は、十五・六程だろうか。
 まず驚いたのはその目だ。
 何処にでもいるような平凡な面差しであるが、目だけは違っていた。
 彼女の無垢すぎる目からはとても強い引力を感じる。

 全裸であることにもすぐに気が付いたが、それよりも、彼女の目、だ。


「安倍様。あの少女は一体――――」


 晴明は無言で衣服を源信に差し出した。
 着替えさせろ、ということらしい。
 しかし、敢えて受け取らずに晴明を呼ぶと、彼は嘆息し、


「着替えさせた後に話してやる」


 と。
 源信はにこやかに頷いて、衣服を受け取った。

 晴明に一礼して少女に歩み寄ると、不思議そうに源信を見上げてくる。
 その後ろに隠れるように、一匹の鵺がいた。
 少女に寄り添う鵺に、敵意は全く無い。《アヤカシ》であるのは確かだが、危険を感じなければ邪気も非常に薄い。

 鵺を見下ろすと、少女が源信の手にした衣服を掴み、徐(おもむろ)に袖を噛んだ。


「ああ……これは食べ物ではないんですよ。身にまとう物なんです」


 少女の頭を撫でてそっと口から袖を出してやると、鵺がか細く鳴いた。
 すると少女は衣服を放し、きょとんと源信を仰いだ。

 怖がる風も無い少女はどうやら人語を理解出来ないらしく、代わりに解する鵺が仲介をしてくれたのだろう。
 鵺に謝辞を述べ会釈すると鵺が蛇の尾を揺らし、また鳴いた。


「それでは、着替えましょうか」


 少女は小さく瞬きした。



‡‡‡




「――――成る程。安倍様は鵺に招かれた森でこの少女に出会った、と」


 眠り込む少女を背負い、源信は得心のいった顔で頷いた。
 鵺は源信の後を軽い足取りでついてくる。

 晴明は来た時と同様、源信の前を歩いていた。


「それで、彼女のことはどうするのです?」

「どうもこうも……」


 面倒を見る他無いだろう。
 殊更(ことさら)嫌そうな声に苦笑も禁じ得ない。

 少女はどうやら生まれた時から鵺に面倒を見てもらって森の中で暮らしていたらしい。
 その為、言葉を知らず、喋ろうとしても動物のそれとなる。
 面倒を見るのは、一筋縄では行かないようだ。


「……もしや安倍様。彼女のことをわたくしに任せるおつもりで?」

「……」


 無言。
 源信は吐息を漏らした。


「……分かりました。では、この子達はわたくしがお預かりしましょう。今日はこのまま彼女達を連れて仕事寮に?」

「ああ。……弐号なら、鵺の言葉が分かるだろう」

「そうですね。確かに、言葉が通じないうちは、彼の力は有り難い」


 鵺を振り返ると彼は小さく跳ねて鳴いた。
 まるで喜ぶ犬のような声に、源信は笑った。


「宮様達は、さぞ驚かれるでしょうね」


 その様を思い浮かべながら言うと、晴明が鼻を鳴らした。



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