拾弐




 大内裏へ向かうその道途にて。
 ライコウの太刀を握り締めたまま澪はふと足を止めた。西の方角を見、長い袖で鼻を押さえる。

 訝って立ち止まった晴明が澪を呼んだ。彼女の視線の先に在る者を見、僅かに眉根を寄せた。

 築地に寄りかかって澪を挑発するように凝視してくるのは――――北狄だ。
 この薄明かりの中でも危うく浮かび上がる巨大な圏のような得物を、片手でぶらぶらと揺らしている。澪が興味を持って近付けば、たちまちに斬られてしまいそうな、危険な香りを濃厚に纏わせていた。
 けれども、澪は晴明に抱きついて怯えた眼差しを北狄に向けている。この様子では、自分からは近付きはしないだろう。

 澪の怯えを感じ取った漣が二人の前で姿勢を低くし唸る。襲いかかりはしないが、北狄に動きあらば澪を守る為に彼は牙を剥くだろう。

 晴明も事が起これば応戦するつもりではある。が、ライコウのような肉体労働は専門外だ。北狄が本気で殺そうと動くことは無いだろうが、万が一にもそうなってしまえば、面倒な事態になるのは言わずもがなだ。要らぬ労働はしたくないと、晴明は自身に張り付く澪の手を掴んで歩き出した。澪も、これに大人しく従った。

 が。


「ねぇ、知りたくない? 君の大切なお友達がどうなったのか」

「!」


 澪が足を止める。
 ろーた、と誰かの人名を呟いて晴明の手を振り払う。北狄に駆け寄ったのに晴明は声を荒げて彼女を呼び止めた。だが、無意味だった。
 澪は小走りに北狄に近寄り、数歩手前で立ち止まった。鼻を押さえる。北狄から感じられる何かの臭いを厭っている様子だった。

 警戒する澪の様子に物足りなさげな顔をしつつ、北狄は鼻を鳴らした。


「あの子、家族と一緒に死んじゃった。殺されちゃったんだよ」

「ころ、さーれた……?」

「そう。殺された。誰が、なんて言わなくても分かるよねえ。話の流れを思えば簡単だもの」


 妖艶な笑みを浮かべて北狄は壁から離れる。
 漣が澪の袖を引いて強引に北狄から距離を取らせた。そのまま晴明のところまで退がり、闊歩(かっぽ)する北狄を注視する。

 その険の滲んだ眼差しを、しかし北狄は楽しんでいた。秋波めいた一瞥をくれ、晴明達と同じく、大内裏の方へと歩いていく。
 闇に呑まれて見えなくなるまで、晴明は彼の後ろ姿を見つめ続けた。


「……北狄が向かったのか。源信達のもとにも、沙汰衆が向かったやもしれぬな」


 己の向かったアヤカシ邸でのことを思い出し、晴明は目を細めた。
 アヤカシ邸にもまた、誰かが訪れた痕跡が見られた。
 沙汰衆も同じ場所を探りに来ていたとなれば……やはりあの邸を訪れていた人物は、沙汰衆の――――。
 澪の頭を撫で、晴明は歩き出した。


「戻るぞ」

「……ん」


 澪は晴明の袖を掴む。

 晴明はそれを拒みはしなかった。



‡‡‡




 北狄という男から、濃密な血の臭いがした。
 それは、糺(ただす)の森で暮らしていた頃、狼が子鹿を捕食していた時の臭いによく似ていた。生き物を殺した臭いだ。でも、北狄には生の循環など微塵も感じられなかった。凶悪な愉悦と哀れな死臭のみ。
 殺したのはあの北狄だ。臭いを確かめた訳ではないが、多分和泉達ではない。

 けれども。


「……ろーた」


 彼らは死んでしまったのは事実。
 彼と、もう遊べない。一生。
 やっと出来た五日置きに遊ぶ人間の友達だったのに。
 しゅんとする澪に、漣も察していた。慰めるようにぴったりと寄り添ってくれている。

 晴明も、歩みの遅い澪を叱咤せず、足並みを揃えてくれた。何も、問いかけずに。

 二人と一匹、一言も発さず、思い空気をまとって大内裏を目指す。
 けれども、その途中で、


「澪!」


 空を裂く鋭い声に、澪ははっと身体を跳ね上がらせた。足を止めて声の聞こえた方へ向き直る。
 大股に駆け寄ってくるのは、和泉だ。ライコウも後ろにいる。

 二人は晴明と漣に気付くと、速度を弛めて晴明の前に立った。

 そんな二人に、晴明は厳しい眼差しを向ける。常の彼であれば冷笑と嫌味を惜しみ無く向ける筈だろうに。


「澪から目を離すなと、誰に言わずとも分かっていただろうに。どうやらまた右京南の湿地帯に入り込んでアヤカシに襲われたようだぞ」


 和泉は目を剥いた後、弱々しい笑みを浮かべた。


「……ごめん。ちょっと色々あってね。ありがとう、晴明。漣も。ごめんね」


 晴明はふんと鼻を鳴らして歩き出す。

 されど澪はライコウの刀を抱き締めたまま二人に駆け寄り、その臭いを嗅いだ。特に、腕と腹の辺り。
 狼狽えて距離を取ろうとする二人を追い縋ってすんすんと鼻を動かして臭いを探る。

 血の臭いは、北狄よりも薄かった。生き物を殺したような、そんな濃い臭いではない。
 澪は困惑するライコウにそっと太刀を差し出した。そして、彼が受け取った瞬間に腰に抱きつく。驚いたようでびくついた。
 頭をこすりつけると、躊躇いがちに頭を撫でられた。ぎこちない動きに目を伏せた。

 彼らはろーたを殺してはいなかった。

 けれども、もうろーたには会えない。二度と遊べない。その事実は決して揺るがず。
 澪は胸の痛みを覚えながら、ライコウにぴったりと抱きついたまま暫く離れなかった。



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