拾壱
蛇の身体した羽の無い蠅がこちらを見下ろしている。
だが、何もしてこない。
澪がアヤカシから距離を取ろうと後退するとその分近付いてくる。一定の距離を保ったまま、何をするでもなくアヤカシは澪と対峙する。
澪も、奇異なアヤカシを見上げたまま動かなくなる。どうしてこのアヤカシは動かないのだろう。疑問に首を傾けた。
アヤカシは時折首を傾げては澪に少しだけ顔を近付け、口を動かして離れるというった行動を取る。それはまるで澪の何かを確かめているようで、澪に何もしてこないのもその所為なのかもしれなかった。
ならば、今のうちに逃げてしまった方が良い。普通はそう考えるのだけれど、澪はその考えに至らない。そのままアヤカシと見つめ合いを続ける。
ようやっと動いたのは、アヤカシの方である。
『ガ、ガガ……ギィ、ギィィ』
錆び付いた蝶番(ちょうつがい)が立てるような不快な鳴き声を上げ、ぐねりぐねりと身を捩って蜷局(とぐろ)を巻く。
アヤカシは澪に先程よりもぐっと顔を寄せた。
澪はライコウの太刀を抱き締めて一歩後退した。
アヤカシは耳障りな音を、切れ切れに上げ続ける。時折その声音が変わるのは何故だろうか。ままに言葉のようにも聞こえるのは気の所為だろうか。
『ガ……ヨ……ミ……』
「……?」
『ォ……ギョ、ヨ……ヨ、ミ……ヨミ、ノ、ィ、ヒトカケラ……。ク、ラワバ……オオィナル、チカラ……ッ、トワ、ノイノチ……ェ、テニ、イレル』
黄泉の一欠片。喰らわば大いなる力、永久の命、手に入れる。
そう、繰り返す都度しっかりと人語を成していく。
澪に向けられた言葉だとは、彼女にも分かった。自分よりももっともっと拙(つたな)い人語が剣呑であることも、本能が察知していた。
だから、警鐘が脳裏に鳴り響くのに押され、澪は駆け出した。
アヤカシに背を向けて大内裏へと走る。少しでも大内裏に近付けば、誰かが気付いてくれると思った。漣が、或いは仕事寮の誰かが助けてくれると思った。
だが、目の前に叩きつけられた尻尾がその希望を破壊する。
長く太い体躯が澪の周囲を囲む。
澪は蠅の頭を見上げ、跳躍して身体を飛び越えてまた逃げた。結果は同じ。また逃げ道を塞がれてしまう。
蠅の顔が真後ろに迫り、澪は反射的にそれを避けた。外套が口に引っかかり裂けてしまった。
『チカラ……オオイナルチカラ……テニイレル、エイエンノイノチィィ……ッ!』
「うにゅっ」
顔に突進されて澪の華奢な身体が宙を舞う。それでもライコウの太刀だけはしっかりと抱き締めて離さなかった。地面に強か叩きつけられても離さなかった。
呻いたのはつかの間のことで、澪はすぐに起き上がった。とにかく逃げようと足を動かす。
アヤカシは、しつこく追い縋った。
このアヤカシは何か勘違いをしている。きっと、そう。
黄泉の一欠片とか、大いなる力とか、難しい言葉を使うが、そんなもの自分は知らない。
だからこれは思い違いなのだ。
自分を食べても美味しくないと教えてあげれば、アヤカシは止めてくれるだろうか。
そう思い立って足を止めてアヤカシを振り返る。
けれども後ろから頭を鷲掴みにされて押し潰された。
「ふぎゅぅっ」
一瞬だけ見えたのは綺麗な炎だ。
地面に突っ伏した澪はそれの行く先を見ることは出来なかったが、その直後にアヤカシのおぞましい断末魔が聞こえたのに耳を塞いだ。
足をバタつかせると、
「っ、ええい、動くな馬鹿者!」
聞き慣れた叱咤が降ってきた。
それに、澪は押さえつける力をものともせずに起き上がりその人物に抱きついた。押し潰された際に取り落としてしまったライコウの太刀は、地面に置いたままだ。
引き剥がそうと頭を掴んだ手はしかし、アヤカシの悲鳴に動きを止める。
『ヨミノヒトカケラ……ヨミノヒトカケラ……オオイナル、チカラ……カミノ、コドモ……』
「黄泉の一欠片、神の子供……?」
怪訝そうな声に顔を上げると、彼は――――安倍晴明はアヤカシから視線を澪へと落とした。アヤカシの言葉を噛み砕くように反芻(はんすう)しながら澪の右目を強引に剥いて探る。
「おい、澪。あれはどういうことだ。そして何故お前があの太刀を持っている」
「うー」
「……聞いた私が愚かだったな」
右目が解放され、ぺしっと額を叩かれる。
苦悶の声が徐々に小さくなっていくと、晴明は澪を剥がした。着物が汚れたと舌を打つ。
そして、その後ろから漣が現れて澪の足にすり寄って不吉な鳴き声を上げた。不吉でもこちらの声はとても安心出来る。
漣に抱きつこうとすると晴明が止めた。
「後でしろ」
「ぬー」
「新しい鳴き声を出すな」
冷ややかに言いつつも、ぽんと頭を撫でて晴明はきびすを返す。
大股に、しかし優雅に歩いていく彼を見つめ、澪はライコウの太刀を抱き上げた。ぎゅっと抱き締めて漣と一緒に晴明の後を追いかける。
その途次にて、漣に教えてもらったことなのだが、帰り道にあった漣が澪と大きなアヤカシの気配を察知して急行している際に晴明も合流したのだそうだ。彼は別の気配を感じていたらしいが、方向が全く同じだったからそのまま共に来たと。
澪は後ろから晴明の袖をくんと引っ張った。
「ありがとう」
「……」
晴明は、鼻を鳴らすだけである。
けれども数歩歩いたところで、澪を呼ぶ。
「分からぬと承知で訊くが、澪。あの周辺で黄泉の気を感じなかったか」
澪は首を傾け、ふと思い出す。
そういえば、声を聞いた。
『さあ、誰でしょうね。私の可愛い人』 うっとりする声だった。魅惑的で、惹き付けられる。
そして、澪の味方であると言っていた彼女はやけに親しげで、こちらも耳に残っている。
「声」
「声?」
「みおの、味方。歌う声」
「お前の味方だと言ったのだな? 何処から聞こえた」
地面を指差せば、晴明の秀麗な眉目が歪んだ。唇を動かし、声無き声を漏らす。
「……そうか。もう良い。十分だ」
晴明は澪を肩越しに振り返り、「戻るぞ」と速度を速めた。
.
[ 58/171 ]*┃#栞挟戻