辿り着いたのは、いつぞやの右京の湿地にある廃屋であった。
 人攫いに襲われた際に逃げ込んで、凶悪なアヤカシにも襲われて。

 ライコウに助けられたのだ。

 澪は廃屋に飛び込んだ。
 前よりも傾き今にも倒壊してしまいそうな黴と埃に澱んだ家屋の隅に座り込み、ライコウの太刀を隣に置いた。
 側にあるのは無機質な太刀だけだ。あの時は一緒にいた漣も、今は源信達と共に在る。

 ここには、澪独りだけだ。

 ろーた達はどうなっただろうか。無事だろうか。
 ライコウの太刀を盗むことに罪悪感が無かった訳ではないが、あれ以外にろーた達を守る方法が思いつかなかった。ライコウから、殺す手段を奪うことくらいしか。

 よもや北狄が皆殺しにしたとは夢にも思わぬ澪は、五日ごとにしか会えない友達と、その家族と仲間達の無事を信じる。そして、また彼と遊べることも信じた。

 膝を抱えて顔を埋める。
 誰かが迎えに来る訳でもないのに、誰かを待ち続けた。

 時折、家が軋む。
 いつ倒壊してもおかしくないその家屋を訪れる者は一向に見られなかった。話し声すらも聞こてえない。
 それでも辛抱強く、彼女はじっと座り続ける。無言で、意地になって何かを待ち続ける。
 どうして誰かに来てもらいたいのか、澪本人は分かっていないだろう。

 彼女は、無性に誰かに抱きつきたいのだ。罪悪感と怖さと寂しさと強い願望――――渦巻く様々な感情が複雑に絡み合い、澪はそれが上手く理解出来ないでいた。ろーた達に無事でいて欲しい、誰かに会いたい、それらだけははっきりしている。

 苦しげな家鳴りと、吹き荒ぶ風が隙間を通り抜ける音のみの廃屋で、澪は不意に外に音を聞いた。
 人の足音ではない。何か長い物が這いずるような不気味な音だ。
 膝立ちになって開けっ放しの扉から顔を出して外の様子を窺うと、少し離れた場所に闇に紛れる太くて長い生き物がいた。胴など澪すっぽり収まってしまうくらいに巨大な蛇のようだ。

 恐らくは、アヤカシだろう。
 澪は唇を引き結んで元いた場所に戻った。
 己の口を手で塞ぎ、気配を殺す。

 右京には近付いてはならないと、耳にタコが出来るくらいに仕事寮の皆から言われていた。特に澪が襲われたこの湿地帯は、絶対に近付くなと晴明に口五月蠅く言われていた。
 だのにまたこの廃屋にいると知られれば、大目玉を食うのは目に見えている。
 だが、残念ながら彼女はこの時になってこれを思い出した。

 晴明達に知られる前にこの湿地帯から出ておきたいが、這いずる音はまだ聞こえる。どうやら得物を探して付近を彷徨(うろつ)いているようだ。澪の存在に気付けば、あのアヤカシはこの廃屋を破壊し獲物を狩るだろう。
 そうなる前に逃げ出すか、或いはこのまま影が去るのをじっと待つか。どちらも一歩間違えれば即死だ。あの日の人攫い達のようにアヤカシに喰われる。
 喰われてしまえばもう遊べなくなってしまう。
 澪は首を左右に振ってこれを拒絶。身を堅くして息を殺した。

 今は側に漣はいない。たった独り、肌寒く黴臭い廃屋の片隅で脅威が去るのをじっと待つ。

 だが――――運が悪かった。


「……っ!」


 蠅のような顔が、さっき澪が顔を覗かせた扉からにゅるりと入ってきたのである。
 複眼と、目が合ってしまう。
 蛇は蛇でも、頭は蠅のそれだった。
 この辺りのアヤカシは、別の動物が融合した身体が特徴なのだろうか。

 澪はライコウの太刀を抱き締めて立ち上がった。

 廃屋に入ってきたのかまだ頭だけだ。いつ喰われてもおかしくない状況だが、澪は横へ横へとじりじりと動いて、朽ち果て空いた隙間から逃げ出した。ぬかるんだ地面を踏み締め一目散に逃げ出す。
 暫し走ったところで廃屋の方から雷のような轟音がした。

 走りながら振り向けば、アヤカシが首を抜くのではなく持ち上げて廃屋を破壊したのだ。

 ここで、またアヤカシに追いかけられるのだ。
 澪は泥水で足を汚しつつ全速力で逃げた。
 今回のアヤカシは幸い、以前のアヤカシよりも遅い。簡単に引き離せた。

 大きく回り込んで朱雀大路に戻り、一息つく。
 振り返れどもアヤカシの姿は無かった。今回は上手く撒けたらしい。
 周りにアヤカシがいないことを確かめて、北の大内裏に向かう。

 けれどもその途中、気になる物を見つけた澪は足を止めた。
 歌が聞こえる。うっとりするような、魅惑的な声だ。心をごっそりと持って行かれてしまう魔性の、甘美で優しい引力だ。
 澪は周囲を見渡して歌声の出所を探した。

 暫くして、歌が実は足下から聞こえるのだと気付く。

 その場に座り込んで掌で地面をばしばしと叩くと、誰かが笑声を立てた。途端に歌は止んでしまう。


『何処を探しているの? お間抜けさんね』


 お間抜けで、寝坊助で……本当に可愛らしい人。
 心の底から愛おしむ声は、澪に向けられたものだ。親しげに話しかけてくる。

 その声に、澪は既知感を覚えた。


「だれ?」

『さあ、誰でしょうね。私の可愛い人』


 また笑う。
 出所は……地面、ではない?
 澪は足下に広がる自分の影を見下ろした。微かな月光の下、漠然と輪郭を保つ頼りなげなそれから声は聞こえているようだった。


『大丈夫よ、私はあなたの敵ではないから』


 そうか、なら安心だ。
 澪は姿無き声の確証無き言葉を簡単に信じた。何故か、この声の言葉は信用出来る。すうっと胸の内に溶けて、納得してしまう。この引力の所為だろうか。

 澪は短く頷いた。


『時が近いのね、きっと』

「時?」

『そう。時。……ああ、でも。その前にここを離れなけれなば――――』


 時を迎えられないわ。
 声は鷹揚に、ゆったりと笑った。


 直後、澪は闇に呑まれる。


――――ああ、いや。

 呑まれたのではない。
 澪の身体が、何かの影にすっぽりと包まれただけだ。

 ずり、と身近に聞こえた音にぴくりと身体を震わせた。

 立ち上がって、振り返る。


 蠅の複眼が、高い位置からこちらを見下ろしていた。



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