澪は反射的に浪太の身体にしがみついた。
 この、胃の腑から咽までせり上がってくる不快な感触、足先からうなじまで駆け上がる冷たい痺れ。けたたましい警鐘。
 つい昨日、感じられた本能的な恐怖だった。


「……ふふ、こんばんは」


 転がすような笑声が、全身を舐める。

 和泉達の背後から現れたのは――――青年である。闇夜に溶け込んだ漆黒の着物から覗く白磁の肌は僅かな月光に不穏に浮き上がる。
 何が楽しいのか、機嫌良く弧を描いた紅唇から舌がちろりと覗いた。


「……北狄」


 ライコウが小さく呟く。
 けれど、はっとして浪太の父親へと向き直った。


「朝廷に屈するくらいならば……」


 迷うような、声が絞り出された。
 暫しの間を置いて、それは確固たる意志を持ち、和泉達へとぶつけられる。


「お前たちの生き方に従うつもりはない」


 和泉は一瞬瞳を揺らした。すぐに表情を引き締め父親を見据える。


「……それが意味することはわかっているんだろう? それでも、その意思は変わらないのかい?」

「愚問だ」


 お前達に妥協するくらいなら、死んだ方がマシだ。
 頑然と揺るがない浪太の父親の態度に、北狄が小さく嗤(わら)う。何が、そんなに愉しいのだろう。

 和泉は、感情を押し殺したような堅い表情を維持し続け、背中を向ける。


「そう、残念だ……。ライコウ!」

「……御意に」


 ライコウが、澪を見て手を差し出す。こちらに来い、とまるで赤の他人にするような態度で言う。彼は、迷っているような悲しそうな心中を押し殺すみたいに堅すぎて鋭すぎる目をしていた。

 澪の中で懸念が膨れ上がる。
 浪太に会えなくなるかもしれない。……一生。
 澪はふらりと浪太から離れ、ライコウへと歩み寄った。浪太が澪を呼ぶ。

 ライコウの前に立つと、彼は安堵したように表情を弛めた。


 その、一瞬である、


 澪はライコウの腕にしがみついて噛みついた。


「なっ!?」

「ぅがっ!」


 ライコウの手から乱暴に太刀を奪い取り、その場を駆け出す。
 浪太が澪を呼ぶけれど、澪は立ち止まらなかった。
 荒野を全速力で駆け抜ければ誰にも追いつくことは出来ぬ。

 澪はライコウの太刀を握り締め、逃げるようにその場を離れた。



‡‡‡




――――澪が去って、幾ばくも経っていない。

 だのに、眼前には血溜まりに倒れ伏す死体の山。
 浪太は独り、立ち尽くしていた。

 浪太も全身が真っ赤だ。自分の血ではない。息子を庇った父親のものだ。

 後ろにいる青年の凶刃から、息子だけでも守ろうとして、今足下に倒れている。
 折角澪が長身の男から太刀を奪って逃げ出してくれたのに、逃げる暇も無く、殺された。


「これが、朝廷なんだよ、坊や」


 青年が、いやらしく言う。


「受け入れるとか何とか……、そんな綺麗ごとをいくら言っても結局は殺してしまうんだよ、彼らは。自分たちからは歩み寄れないからって、君達に歩み寄らせようなんて都合のいい話だよねぇ」

「……俺達は、受け入れられたんじゃないんだ」


 あくまで、こちらから靡(なび)いたんだって、この人達はそうしたいんだ。
 自分達の矜持の為に。


「……お兄さん」


 浪太は口を開く。
 俺を殺してよ――――と。

 そんな願いは、口からも出ることは無かった。



 その前に、首と胴が離れてしまったから。



‡‡‡




「分かったよ……って、もう聞こえてないか」


 北狄は嗤う。機嫌良く嗤う。
 そして和泉達を振り返って両手を広げた。


「忘れるなよ? お前たちの世界っていうのは、こいつらのような、哀れな犠牲の上に成り立ってるってことをね」


 土蜘蛛は全て死んだ。
 北狄が殺したのだ。

 澪の庇おうとした友達も。

 けれども北狄を憎悪することは無かった。
 和泉も、土蜘蛛がこちらに従わない意志を明らかにしたその時に、全員を殺すつもりであったからだ。
 そうしなければならない。

 土蜘蛛はまつろわぬ民。排他すべき存在なのだ。
 ここで、《和泉》は見逃せない。見逃してはならない。
 それが和泉の立場なのだ。

 国の秩序を保つ為に。
 国を守る為に。


「……わざわざ言われなくても、そのくらい知っているつもりだよ」

「ふふん、だといいけど? それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。……ああ、でも今は機嫌が良いしちょっと散歩がしたいから……あの女の子捜してきてあげようか?」

「不要だ」

「そう? 逃げられちゃうんじゃない? 血の臭いで。……まぁ、それも愉しそうだけれど」


 即答したライコウににんまりと、北狄は挑発的な笑みを浮かべた。

 が、北狄の言うことも尤もである。
 澪はこれで和泉達に不審を抱いただろう。そんな彼女に血の臭いをまとった姿で迎えに行けば、きっと和泉達が友達を殺したのだと彼女は思う。
 ……いや、実際和泉達が殺したようなものだ。元々殺そうと決めていたのだから。

 ゆっくりと歩き去っていく北狄を睨めつけながら、和泉は両手に拳を握り締めた。

 澪に一番知られたくなかった部分を、見られてしまった。
 純粋な彼女は感情のままに動く。
 澪に拒絶されることが、和泉はとても怖かった。


『みおも……死ぬ?』


 澪の純粋な問いが胸を突き刺す。
 苦しい。
 澪のあの純真無垢な目が恐ろしい。

 ……それは、和泉だけではない。
 ライコウも、無表情でいるが同じ気持ちだろう。

 けども、それでも澪を迎えに行かなければならない。


 夜は、危険だから。



.

[ 56/171 ]




栞挟