肆
水面に映った己の顔を興味深げに見下ろしていた澪は、何を思ったか水面に平手打ちした。パシャンと大きな音を立て、大粒の水滴が澪の身体、主に顔へ跳ねる。
反射的に目を瞑って顔を激しく振って目を開けると、横合いから青い袖が現れて澪の顔を優しく拭いた。
源信である。
彼は苦笑を浮かべて澪の水滴の付着した髪を撫でつけた。
その後ろで、不満そうな壱号の声がする。
「おい、何やってんだよ。さっさと探すぞ」
「ええ。さあ、行きましょう」
源信は頷き澪の手を引いて歩き出す。
ここは神泉苑。
彼らの受けた依頼は、紛失した神泉苑の橋飾りの調査乃至(ないし)捜索である。
飾りの失われた橋の方へ向かうと、整然と等間隔にたてられた欄干を支える柱。その上に、美しい緻密な模様が刻まれた金属の飾りがある。こんな些細な物にまで匠の技術は徹底されていた。
そのうちの一本にその飾りが無いだけでも非常に目立つ。計算された美は途端に不格好になり、味気無い。
風流を愛する貴人からすれば、即座に興醒めする光景であった。
手すりを触りながら澪は寂しい柱を指差した。
「あぁ、本当になくなっていますね」
さて……誰が持ち去ってしまったのか。
澪は飾りが付けられていたその場所を撫でながら源信と壱号を見上げた。
「とりあえず、ここを通る方に聞いてみましょうか」
誰か見ていると良いのですが……。
独白しながら、源信は周囲を見渡す。
それに、欄干に寄りかかっていた壱号は素っ気無く返した。
「相手の目的によるだろ」
「もーくーてきー」
「目的、だ。例えば、通りかかった時に偶然目についたとか、ちょうど取れかかってたとかなら、見られてる可能性も高いだろ?」
つまりは、盗難目的ならばまず人目を憚るのだ。見つかって捕らえられれば元も子も無い。
入念な観察の果てに隙を見出し、効率よく盗みを働くのがごく自然な流れではある。人に見られないことが大前提だ。
「後は、金に困ってるのか、ただ綺麗だったから持って行ったのか、ってところだろうな」
「ええ。理由如何によっては、店に売ったり、自身の部屋に隠したりと、様々ですね。探し方も考えなければなりません」
「うー」
壱号の憶測を聞きながら澪は首を傾けた。半分は理解出来た。もう半分は、まだ理解が追いついていなかった。……元より、壱号も彼女に理解してもらいたいとは思っていないので分かりやすく言うつもりも無かったが。
「さすがは壱号さん。素晴らしい着眼点です」
「やめろよ。それくらい源信だってわかってるんだろ? それに、こんなのがわかったって探し方は、どうせ聞き込みか、澪と漣頼みだ」
壱号が澪を見下ろすので、両手を挙げて爪先立ちになる。溜息をつかれた。
澪頼みと言いつつ、彼は澪達だけで探してこいなどとは言わなかった。彼女の単独行動が如何に危険か身を以て知っているし、昨夜気を失って目が覚めなかった彼女の身体を案じてもいるのだった。
地道な作業だが、仕方がない。聞き込みを中心に情報収集をしなければなるまい。
再び澪の手を握った源信は周囲を見渡し、「あぁ」と。
「あちらにちょうど人がいらっしゃったようです」
そっと丁寧に示された方向には、二人連れの女性が。談笑に花を咲かせながらこちらに歩いてきていた。
「では、あの方々にはわたくしが聞いてまいりましょう。壱号さんは別の方をお願いします。半刻後、こちらに集合しましょう」
「あぁ」
壱号は欄干から離れると、少しだけ面倒そうに歩いていった。漣がそれに続く。
それを暫し見送り、源信は澪を見下ろした。
「では、我々も仕事に取りかかりましょう」
「ききこみ」
「はい」
‡‡‡
得られた情報は有力とは言えないまでも、それなりには多い。
その中の目撃証言では、橋飾りらしき物を持って歩く人物が市で見かけられている。どんな人間か、その特徴までは分からなかったものの、情報の中では一番有力だろう。
神泉苑から市へと移動し、そこから澪の落ち着きが無くなった。食べ物が多い為である。
ともすれば飛んで行ってしまいそうな澪の手をしっかりと握り締め、源信は各々で捜索することとし、壱号と別れた。漣は神泉苑と同様壱号について行った。
「まぁ、源信様じゃないですか。澪も、元気そうで。これ、売り物にならない焼き損じだから持ってお行き。勿論味は同じだよ」
「……あ、りがとう」
澪が拙い礼を言えば、唐菓子店の主は嬉しそうに笑って頷いた。
「本当にすみません……いつも良くして下さって」
「良いんですよ。澪がいるともう一人娘を育ててる気になって、あたしも旦那も、前よりもうんと楽しくなったんです。むしろ、こっちが感謝してます」
源信は煎餅に夢中になっている澪の頭撫でながら謝辞を口にする。それから、仕事だからとその場を離れた。
――――けれども。
「ぬー?」
「澪? どうかなさいましたか」
「……あっち」
澪は源信の手を振り払う。そして大股に駆け出した。瞬く間に雑踏に紛れていく。
何かを見つけたのだろうと源信も間を置かずに後を追いかけた。
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