どうして生まれたのか分からない。

 いつこの世に《生じた》のか分からない。

 どうして自分はここにいるのだろう。

 いつ自分は《自分》と成ったのか分からない。

 自分のことが、分からない。
 何一つ。
 何一つ――――……。




‡‡‡




 深い深い、神聖な森。
 しんと静まりかえった世界は、外と完全に隔絶され、聖なる冷気をまとい住まう者達を守り続ける。
 この森は、住まう者にとって母であり、堅固な要塞であり、唯一無二の家であった。

 森の中で全てが流転し、調律される。
 何かが終われば何かが産声を上げる。
 昨日老いた物知りな狼が往生したかと思えば、翌日には雛が卵の殻を突き破る。

 誰も彼も、その森の中で人生を終える。それが森の住人達にとっては至極当たり前のことだった。

 彼らに外の世界は必要無い。
 人という私利私欲で澱んだ世界の何に惹かれるというのか。
 汚れた世界に自ら飛び込むより、神聖なる森で安穏と暮らした方が賢い。

 人間は醜い生き物。
 自分達を見、下らぬ座興の一部にする。
 何が雅だというのか。
 何に趣が無いというのか。
 全く以て、理解が出来ぬ。

 我らはただただ、清らかなる要塞で暮らせば良い。
 母なる森に抱かれて、森に住まう神に見守られ、己の生を全うすれば良い。

 変化など無くても良い。
 自分は自分。
 あなたはあなた。
 その事実は揺るぎ無いのだから。

 ここにいれば、自分達は幸せだ。
 だから、誰も出ようとはしない。
 出ること自体が考えられない。

 その《少女》もそうだった。
 けれども彼女は《自分》を知らない。
 澪という名前も他者から与えられたものだ。決して自分が最初から所持していたものではない。彼女が、最初から所持していたものは何も無い。
 気付けばここにいた。
 気付けば大きな獣が側にいた。

 気付けば、

 気付けば、

 気付けば。

 全てが気付けばそうだった。
 自分は何なのだろうか。
 全く分からない。

 されど、獣は語る。
 じきに分かる時が来る。その時まで暮らしていれば良いのだと。
 そうすれば、何も無く――――《帰れる》と。

 何処に? とは訊かなかった。
 何となく分かっているような気がしたからだ。

 ならば待とう。
 待って、待って、待ってみよう。
 獣の言葉に逆らわず、少女は獣の指示に従い聖なる森で暮らす。
 獣は甲斐甲斐しく少女の世話を焼いた。最初からそうしていたかのように、少女のしたいことを先回りして把握し、その通りに動いてくれた。

 獣だけではない。
 森に住まう者達も、こぞって少女の面倒を見た。
 壊れ物のように扱い、敬い、深く深く愛した。

 少女にとって、そこは楽園だったのかもしれない。
 けれどその真綿の世界が本来彼女のいるべき場所ではない。
 獣が、毎夜毎夜睡魔と共に少女に添い寝して、繰り返し語りかける。
 それが真実であると少女の脳に刷り込むかのように、優しく、穏やかに、低く。

 本当に在るべき世界は、いつか《帰れる》場所なのだろう。
 少女には分からない。
 分からなくて良かった。
 獣はいつでも優しく、少女を助けてくれる。
 だから、獣の言うことに間違いは無いのだ。

 少女は待つ。
 待って待って待ち続ける。
 いつか、何処かに《帰れる》その日まで。



‡‡‡




 声がする。
 声が聞こえる。
 明確な言葉は無いが、何かを求めるようなその声は、このところ毎日のように耳元に囁きかけてくる。

 安倍晴明は目覚めるなり身を起こした。
 覚醒と同時に声はぱたりと止む。
 しかし晴明には、その声が何処から聞こえるものであるか分かっている。その為に、五月蠅い言葉無き声を毎晩聞いていたのだ。

 身形を整え、ふらりと一人邸を出る。
 霞がかった春の暁も遠き頃、彼以外に生きた気配は全く無い。霞の中に、未だ日の加護を貰えぬ人の世は呑み込まれ、彼方に異世界が広がっているかのような、そんな錯覚を常人に覚えさせる。

 されど晴明はその中に怖じた様子も無く身を投じた。整然とした道を、迷わず曲がり、或いは真っ直ぐに進み、目的の場所を目指す。

 ふと、そこに野良犬が通りかかった。
 痩せ細った犬は卑屈そうな目を晴明に向け、その場に伏せた。晴明を崇めるように瞼を降ろして晴明が通り過ぎるまで顔を上げずにじっと体勢を保つ。

 晴明は野良犬を一瞥し、鼻を鳴らした。
 今、霞に覆われた都は異様だ。
 未だ生の気配をまるで感じさせぬ。
 まるで、この闇と霞で生きとし生ける者達に晴明の意識が向かぬよう包んで隠しているかのようだ。

 だが、そんなことは意味が無い。

 長く、海の如く深い青みを孕んだ黒髪を上質な衣と共に靡(なび)かせて、晴明は歩く。その様はいと優雅。ただ歩く、それだけの所作であるというに、たったそれだけのことすら極めて洗練されている。

 晴明が歩き去った後、野良犬は面を上げ立ち上がる。
 くうんと鳴いた彼は安堵していたかのようで、また感じ入っている風にも見えた。

 晴明が完全に見えなくなるまで、野良犬はそこにいた。



‡‡‡




 晴明は、その森に足を踏み入れる。
 ぱきりと枝を踏んだ途端に周囲の空気は一瞬にして冷めた。

 それは事実、異世界に入った証だった。
 常ならばそのようなことは絶対に起こらぬ。隔絶された世界は清らかで、人を強く拒絶する。晴明ですら、その例外ではなかった。
 晴明が世界に入り込むことを、あの黒き鳥が許可したのだろう。

 となれば、声の主は黒き鳥と繋がりがある澄んだ異世界の住人。
 晴明は立ち止まって周囲を見渡した。
 光景だけは毎朝見る森のもの。されど感じ取れる全ての者達が清らかで一切の穢れを持たなかった。


「……人の眠りを妨げ、ここに招いておきながら捜せとは……なかなか――――いや、《見事》な心扱いだな」


 ようやっと発した言葉は涼やかに、張り詰めた空気を静かに震わす。

――――その声が、届いたのだろうか。
 不意に、背後に気配。今まで無かった筈の生き物の気配。
 敵意も何も無いそれに晴明はゆっくりと振り返る。

 そして――――晴明は一人の少女、一匹の鵺と対面する。

 何処かで、鳥が羽ばたいたような音がした。



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