弐
支度を終えた彩雪が諸々の家事をこなしに部屋を出た後。
一人褥に残された澪は、がばりと起き上がった。
暫しぼーっと空を見つめていた彼女は意識が判然とするなり少し大袈裟な程に周囲をキョロキョロと見渡し簀の子に飛び出した。
そして気付いた己のまとう衣服に鼻を寄せ、匂いを嗅ぐ。
「さゆき」
新しい、仕事寮の仲間の匂いがした。
それに安堵した彼女は先程よりも落ち着きを取り戻して部屋に戻った。
長櫃の中からばさばさと自分の衣服を取り出し――――勿論中身は荒してしまった――――手早く着替えを済ませる。脱いだ単は源信の教えに習ってきちんと折り畳んで褥の上に置いておいた。
そこへ見計らったように漣が現れる。
澪の足にすり寄り、案じるような声をかける。頭を撫でられて目を細めた。
澪は漣を引き連れて部屋を出た。
彩雪達に会うのかと思いきや、そのまま築地に登って邸の外へと出て行ってしまう。漣も咎めること無く従った。
そして、道に飛び降りるなり駆け出すのだ。
方角は西――――右京の方角。
何かに急いているかのように、彼女の足取りは速かった。
朝早い都を、澪は無表情に、疾駆する獣のように駆け抜けた。
‡‡‡
右京は北外れ。
人影も少ない荒野に、ぽつねんとその祠はあった。
少し歪な土製の建物に臆面も無く駆け寄り、くんと背伸びして小さな声を上げた。
「ろーた、ろーた」
誰かを呼ぶ声は荒んだ大地に吹く風に攫われていく。それは運良く祠の方へと運んでくれた。
ややあって、祠の影からひょっこりと一つの塊が現れ、こちらに駆け寄ってきた。
薄汚れた少年だ。澪の外見年齢よりもうんと若い彼は手足がやや眺めで痩せぎすだ。ぎらぎらとした目は期待が宿っているが、見ようによっては幼いながらに凶悪な野心を抱いている風にも見えてしまう。
あまり、育ちの良いとは言えない粗野な風体であった。
ろーた、と拙く呼ばれる少年は澪の前に立つとにっと黄ばんだ歯を剥いて快活に笑った。
「お早う。澪、約束守ってくれたんだ」
「お早う。約束守る。人として、大事」
「うん。ありがとう」
一見野卑た笑みを浮かべながら、ろーたは漣にも挨拶をかける。高い声で鳴き軽く跳ねた鵺に、ろーたは怯えた様子も無く笑った。
漣の頭を撫で、彼は澪の手を引き走り出した。
行き先は言わない。いつも同じだからだ。
荒れた大地を駆け抜け、とある森に入る。
その中にある大岩に揃って腰掛けて、ろーたは天を仰いだ。
「ごめんな、親父達に見つかると怒られるんだ。ただ、こうして話すだけなんだけど。都の人間は皆嫌いなんだ」
「みおと、ろーたは、友達」
そう言うと、ろーたは嬉しそうに表情を綻ばせた。
「うん。ありがとう」
ろーたと澪の二人は、数週間前にこの荒野で出会った。
最初こそお互い警戒したものの、良くも悪くも働いてしまう澪の持ち味が上手く作用したようで、暫くすれば二人は打ち解けた。
それ以来、五日置きの早朝に他愛ない話をしに互いの身内には秘密にして会っている。
本当は子供らしく目一杯遊びたいのだけれど、それが出来ないからこうして会話だけで我慢していた。ろーたが言うには、彼らの一族は都の人間には酷く嫌われているらしかった。見つかれば追い出されるか、最悪殺されるのだそうだ。
それもあって、源信にすら秘密にしている。
二人と一匹の中で秘密を共有し、つかの間の世界を堪能する。
そして、時が来ればまた自分達の世界へと戻っていくのだ。
追いかけっこや蹴鞠などして遊べれば、とっても楽しいのに、惜しいことである。
せめて会話だけは楽しくと、ろーたも澪も、五日間の間に起こった楽しいことを話す。そうすることで楽しい気持ちを共有するのだ。
ろーたは澪の言葉を必死に解読してくれる。見た目こそ野蛮な色が濃いが、存外賢しい子供だった。その上話し上手で、未だ相手の長い科白を理解しきれない澪でも、身振り手振りを入れられた躍動感ある話は非常に楽しめた。
今日の会話も、とても弾んだ。
「いつも思うんだけど、澪のその……《しごりょう》って所、変な人が一杯いるんだな。その人達の話が一番楽しい。特に黄色い喋る鳥!」
腹を抱えてけたけたと笑いながら、ろーたは澪の話を繰り返す。
けれど、それもすぐに止み、別の話に興味を持つ。
「で、新しい仲間の女の子って、澪に優しくしてくれるの?」
「良い人。友達」
「そっか。じゃあ良いな。仲間なのに仲良くなれなかったら寂しいもんな」
澪はこくりと頷く。確かに、仲良く出来ないのはとても悲しくて寂しいことだ。仕事寮は皆仲が良い。たまに喧嘩もするけれど、仲が良い。
それに、皆澪に優しくしてくれる。唐菓子(からくだもの)をくれる。言葉も教えてくれる。
澪は、仕事寮が大好きだった。
漣もそう。
糺の森と同じくらい、落ち着く居場所だった。
「良いなあ、俺も、そういう所が欲しいな」
ろーたは、今まで迫害されてここまで流れ着いたらしい。
迫害というのがどんなものなかは分からないけれど、それでも良くないことだというのは何とはなしに察せられた。
いつ、彼らはこの地を去るか分からない。
いつ、ろーたと会えなくなるかは分からない。
だから、澪は約束は絶対に守らなかった。なるべく、沢山の楽しいことを探した。
源信達には、内緒で。
次は何を話そうかうきうきとして記憶を探る澪を阻むように、遠くで野太い声が上がった。
隣で、ろーたが肩を跳ねさせた。
「……あ、親父が呼んでる」
「行かなきゃ」ろーたは立ち上がって駆け出した。その途中、振り返って、
「じゃあ、また五日後な!」
無邪気で野蛮な笑顔を澪へと向けた。
澪も、彼に大きく手を振って返した。
――――彼らは、まだ知らないのである。
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