壱
うつらうつらとした微睡みの世界。
睡魔に片腕を引っ張られたままの彩雪は、夢と現(うつつ)の判別も付かず褥から起き上がった。
何かが足りない気がする。
あれ……わたし、一人で寝てたっけ……?
記憶を手繰ろうとして、しかし霞がかった意識に上手く探れない。
のっそりと重い身体を動かして、部屋の中を見渡した。
……真っ暗だ。
あれ、帰った頃には日が覗くか覗かないかだった筈なのに、どうしてこんなに真っ暗なんだろう。
外に出て確認してみようかと簀の子に出ると、そこに少女が座っていた。一匹の獣と一緒だ。
「あれ……みお……?」
何をしている?
そう問おうとした彩雪は、はっと息を呑んだ。驚きに意識が冴える。
彼女は、泣いていた。
空を見上げながら、はらはらと涙を流していた。
彩雪が慌てて彼女の肩を掴んで顔を覗き込もうとすると、
「帰らなきゃ、いけないの」
「え?」
「お父様も標(しるべ)も待っているの。だから、早く帰らないといけないの」
彼が反魂を成してしまう前に、扉を堅く閉めておかなければ、お父様が、闇に染まってしまう。世界が、壊れてしまう。
わたくしが戻れば、まだ間に合うかもしれないのに。
彼女は沈痛に声を震わせて、滔々(とうとう)と語る。
彩雪は混乱した。
澪の口調は明らかにおかしかった。
こんな風に流暢に話す子ではない。
こんな風に淑やかに泣くような子ではない。
でも、側にはアヤカシ――――漣が座っている。
見た目も、目の引力も、澪のものだ。出会って間も無い彩雪でも分かる。
けれど……明らかに違う。
「あの……あなたは、誰……?」
思わず、そう問いかけてしまった。
それに反応したのか、澪はゆっくりと彩雪を見上げ、とろけるような微笑みを浮かべた。
いつもの自由な姿はそこには無い。まるで彩雪には到底手の届かない高貴な姫君のような、たおやかな風情で彩雪を見上げてきていた。
小首を傾げてみせるその様すら優雅だ。
和泉に良く似た雰囲気をまとった彼女に、彩雪は逃げるように身を引いた。
澪は――――否、澪の姿をした高貴な姫君は、眦を下げて彩雪の胸にそっと触れた。
目を伏せ囁く。
「そう……あなたが、菊花様の想いを受け継いだ――――彩雪」
「菊花?」
澪は手を離し、口角を弛める。眦を下げて悲しげに微笑んだ。
「月が、呑み込まれていく。どうかあなたは、あの方のお傍に。そうすれば、きっと菊花様の願いは叶う筈」
「あ……あの方って誰ですか? それに、菊花って人のことも……」
いや、それよりもまずいつもの澪は何処に行ってしまったのか訊かなければ。
彼女に感じた小さな恐怖を振り払い、彩雪はその細い肩を掴んだ。
けれども――――姫君はまた夜空を見上げて、泣き出すのだ。
「嗚呼……阿弖流為(あてるい)様が、またも惨苦を得られるのでしょう。嗚呼、お止めしたいのに、わたくしにはそれは叶わない。何と口惜しいことでしょう」
この人は、誰なの?
澪じゃない。
こんな人……わたし、知らない。
漣を呼ぶが、彼は彩雪に首を横に振ってみせるだけで何もしない。
漣が止めない、警戒しないと言うのなら、彼女は澪なのかもしれない。
いや、でも――――。
「――――ごめんなさい」
「え?」
姫君は彩雪を見、悲しげに笑んだ。まるで母親に見放された子供のような、そんなこちらの胸を突いてくるような寂しい笑みだった。
たじろぐ彩雪に、
「わたくしのことは、お忘れなさいな」
「忘れるって……え?」
「きっとそのうち、わたくしは消えねばならない。だから、ここでの思い出は、忘れた方が良い。そうすれば、皆様も悲しまれない」
言いながら、彩雪へと手を伸ばした。
彩雪の額に触れた直後、
脳がじんと痺れた。
ぐらりと傾いだ身体を、姫君が抱き留める。
その感覚も、一瞬のこと。
彩雪の意識は、一気に闇へと沈んでしまった。
夢と現の判別も付かぬままに。
‡‡‡
目覚めた彩雪は、自分にぴったりとくっついて眠る澪の姿にほっと安堵した。
そしてすぐに渋面を作る。
あれ……? どうしてわたし、ほっとしたんだろう。
帰ってきて晴明は何故か大した術もかけずにそのまま一晩一緒に寝ろと彩雪に澪を押しつけた。大丈夫なのかと問うても、明確な返答は得られず、訳も分からぬままに着替えを済ませ、澪も自分の寝衣を着せて床に入ったのだった。
それで、今目が覚めたのだけれど――――。
……あ、ううん。夢を見たんだ。
どんな夢だったんだっけと思い出そうとしてみるが、感じるのは胸に生まれた空洞のみで、何も思い出せなかった。大切なことだったように思えるのだけれど。
目をこすりながら、彩雪はしかし、頭に痼りを残す。
「……他にも何か、見たような……」
それも、分からない。
「なんだっけ?」彩雪は上体を起こして首を傾けた。
その隣では、澪が健やかな寝息を立てている。
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