澪は世俗に疎い。いや、疎いのではない。完全なる無知だ。
 だからこそ彼女には身分の壁は通用しないし、それが危うくもあるが、和泉にとっては一種の救いでもあった。

 彼女には立場も何も関係なく接することが出来るから――――と言うより、身分やら何やらを出してしまうと今の澪の頭では対応しきれずに混乱してしまうのだ――――気分はうんと楽だ。
 それに、何にも素直な反応を見せる幼子のような彼女を見ていると、張り詰めたものが解けていくような気がするのだ。彼女の側だけは、しっかりと和泉として立っていられる、そんな気がする。
 それは仕事寮の誰もが同じことだろう。人の世を知らない彼女の側では、他人から守る為に自分を塗り固めるモノの一切は必要無い。むしろそれは彼女が戸惑ってしまう。

 和泉も、何故こうも澪に構いたがるのか、その理由を自覚していた。
 兄のような心地であることは否定しない。けれどもそれよりももっと深い部分で、自分は澪にほんの一時でも良い、《逃避》を求めているのだった。
 長い付き合いの、それこそ竹馬の友とも呼べるライコウは分かっている筈。それなのに何も言ってこないのは彼なりの気遣いもあり、澪の性格を慮(おもんぱか)ってもいるのだろう。澪の関わると、彼女に無闇に人の常識を押し付けないと言う源信の教育方針から、ライコウは寛容になる傾向がある。澪に限って何かの間違いが起こりはしないと分かっているからでもある。

 そして、共に仕事をしていられるのも、長くはないから――――。


「宮」


 ライコウに不思議そうに呼ばれ、和泉は我に返る。

 俯き加減になっていた顔を上げると、彼の放った織神が身を翻し方向転換して作り主の元に帰還する。
 それを掌の上に載せ、


「この辺りにいるみたいだね」


 澪と漣が織神を追って戻ってくる。
 ライコウと和泉の袖を引っ張って「猫」を繰り返す。
 ……どうやら、猫を見つけたらしい。
 さすが澪、と心の中で賛嘆(さんたん)し、澪の引っ張るままに従った。

 彼女が向かったのは一本の樹木。
 近付くに連れてにゃー、にゃー、と微かな鳴き声を確認出来た。
 根本に立って澪が上を指差す。

 その先――――樹上にて震える塊がある。
 それを見上げ、和泉は軽く目を瞠った。


「へぇ、あんなところにいたんだ」

「探す、の、猫?」

「あぁ。あの子だね」


 和泉がライコウに声をかけるよりも早く、澪は跳躍し軽々と樹上に上がった。まるで猿か鳥だ。
 塊――――猫は木肌に爪を立てて落ちぬように必死の体で自身を支えていた。そのふくよかな身体でどう登ったのか、少々不思議ではあるが。
 澪は平然と、優れた平衡感覚を以て猫のもとへと歩み寄り、猫を抱き上げた。

 それからひょいと飛び降りて和泉に太った猫を差し出した。


「ライコウの出番、減っちゃったね」

「……」


 何処か消沈した様子で沈黙するライコウの肩を慰めるように叩き、和泉は澪の頭を撫でた。


「怪我はない?」

「無い」

「そう。良かった。じゃあ、お手柄ついでにもう一つ、お役目」


 憮然とした猫を見下ろし、和泉は苦笑する。


「このうるさいお猫様は、女の子が好きなんだ。だから重いかも知れないけど、しばらくあやしてあげて欲しいな」


 そう言うと、澪は寸陰間を置いてこくんと頷き猫を大事そうに抱える。糺の森で動物達と触れ合っていたからだろう。その動作は手慣れていた。
 澪の腕の中に落ち着いたことに満足しているのか、猫は目を細めて今にも寝そうだ。

 これが、ライコウや和泉――――男であったら大暴れだ。

 現金な猫だな。
 和泉は心の中でぼやいた。


「ようやく、依頼完了だね。じゃあ、戻ろうか」



‡‡‡




 依頼主に猫を届けた後、仕事寮に戻ろうと澪は漣と並んで二人の前を歩いた。
 あれだけの猫をずっと抱えていたにも関わらず、疲れた素振りは全く見受けられない。
 まだまだ駆け回れそうに元気な彼女を眺めがら、和泉はふと足を止めた。


「ああ、そうだ」

「どうかなさいましたか、宮」

「うん、ちょっとあの人に話すことがあったのを忘れてたよ」

「では、拙者も共に……」


 同行しようとするライコウに和泉は首を左右に振った。


「誰か戻ってるかもしれないから、ライコウは先に仕事寮に向かってくれ。澪も、良いかい?」


 澪がこくりと頷くと、


「じゃあ、ライコウ、澪を頼んだよ?」

「わかりました」


 澪の頭を撫で、和泉は元来た道を戻っていく。

 その姿を見送り、ライコウは澪に視線を落とした。


「では、参ろうか。澪」

「参ろー」


 拙(つたな)く言葉を真似する澪に、ライコウは口角を弛めた。
 目元を和ませ、彼女の頭をくしゃりと撫でる。



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