息を呑むと同じく、男の赤い目がこちらを見たような気がした、一瞬だけだったから、確かにこちらを見たのかは分からない。

 しかし、どうして彼が、沙汰衆に?
 こんな異質な人達と一緒にいるんだろう。
 一条戻り橋で助けてくれた、この人が……。


「直に見える頃だ」


 彼の言葉に、彩雪ははっと背筋を伸ばす。ほぼ反射的な行動だった。


「ふん、そろそろ黙らねば追い出されかねんな」


 晴明が呟くのに、男は瞬きをして部屋の中心へと視線をやった。他の沙汰衆達も、彼に従い沈黙する。

 御簾の上げられたその先、沙汰衆と正反対の意味で異質な御輿のようなものに、晴明と男の視線が向けられる。
 これから先のことを分かり切っているような二人に、彩雪も困惑しつつも倣(なら)った。

 それから、ややあって。
 その場の空気がざわめいた。
 官吏達が息を呑み、背筋を伸ばして身を硬くする。
 何事だろうか。

 御輿を見つめる彩雪は、その場所に座した人間を認め顎を落とした。
 嘘、そんな。そんなの。
 信じられない。


「なん……で?」


 なんで、和泉が……。
 貴族の男を側に付ける彼は、普段のゆったりとした風は何処にも無く。厳しく凛々しく引き締められたかんばせは何人をも寄せ付けぬ程に研ぎ澄まされ、別人ではないかと錯覚させる。
 この場に於いて、彼が最も尊き存在であるかのような居住まいに、混乱は更に強まった。

 そんな彩雪を余所に、官吏達は囁き始める。
 けれどもそれも、貴族の男の一声で即座に静まった。

 彼は沈黙した官吏達を見回し、和泉に一礼した。


「……では、天照皇子(あまてらすみこ)」

「……あぁ」


 あまてらす、みこ?
 あまてらすとは、皇室の祖神、天照大御神のことであろうか。
 となれば――――え?

 一体、どういう――――。


「一部の者は、多少なりとも話を聞いているだろうが、改めて、吾の口から説明する。これは……都の大事となり得ることだ」


 和泉が、朗々と語り始める。


「かつて魔王と呼ばれた存在――――将門を知らぬ者はいぬだろう。その脅威は未だ色濃く残っている」


 ……その将門の復活を、もくろむ者がいる。
 刹那、ひっと、誰かが悲鳴を漏らした。
 誰もが愕然とし、和泉を凝視する。

 だが、彩雪だけは違っていた。
 和泉の変貌にただただ戸惑い、見慣れた彼をほんの少しでも見出そうと熟視する。……見つけらない。


「断定された話ではないが、それを許すわけにはいかぬ。最優先に処理すべき火急の事態だ。したがって、仕事寮……そして沙汰衆に命じる。早急に魔王復活を阻止しろ」

「これは皇子の命だ。仕損じることのないよう。各々方も、彼らに協力を惜しむことのなきように」


 和泉の言葉を強調する貴族の男は、沙汰衆を見つめていた。彼らは何か関連があるのかもしれない。


「おーい。参号。ついてきとるか?」

「弐号くん……」


 半ば放心状態であるようにも見えてしまう彼女に、弐号が小声で話しかけた。


「お? 聞こえとるようやな。ちゃんとわかっとるか?」

「……全然わかんない」


 素直に首を横に振る。


「ねぇ、……和泉っていったい何者なの? 皇子って呼ばれてたみたいだけど……」

「あー、皇子ってのは、和泉の立場……やな。参号は知らんかったと思うけどな、あれでも皇太子なんやで、和泉は」

「……こう、たいし?」


 皇太子――――つまりは、次期天照皇(てんしょうおう)。
 それが、和泉?


「そんで、和泉と一緒にいたんが、藤原氏……まぁ。摂関家っつう、帝の代わりに政(まつりごと)をしたりする家の者、やな」

「……、へぇ」

「わかっとらんやろ……? けっこうたいへんなんやで? 皇子様っていうのも」


 理解しようとはしている。
 けれど、彩雪の頭はその事実を拒むかのように理解を拒否する。

 彩雪は、和泉を見やる。本当に自分の知る和泉なのか、不安で不安で仕方がない。
 もしこの場に澪がいたら彼女はどうするだろうか。
 自分の感覚に正直に自由に生きる彼女なら、あの和泉が本当の和泉なら分かるかもしれないのに。

 和泉は、一度たりとてこちらに目を向けることは無かった。彼の意識から排除されているかのようで、とても寂しかった。
 謁見の終了を藤原氏が告げ、その場は散会となる。

 ぞろそろと己の職場へと戻っていく官吏達の中、彩雪はその場に縫いつけられたように呆然と立ち竦んでいた。

 そんな彼女を現実に引き戻したのは、主の玲瓏な声だ。


「出るぞ」

「え?」


 はっとして周囲を見渡し、彩雪は晴明に向き直る。


「仕事寮に行くぞ。そこで改めて、和泉からの話もあるだろう」


 彼はそれだけ言って彩雪に背を向ける。
 緊張の反動か、気怠げに大極殿を出て行く官吏達に混ざって扉に向かう主を追って、慌てて足を踏み出した。

 が。


「あ……」


 少し離れた柱の下。そこには、男の姿が。
 ……そう言えば、わたしあの人の名前知らない。
 こちらは名乗ったけれど、彼は名乗らなかったんだっけ。

 彼の硬い表情を見つめていると、胸の奥底でちくりと何か突き刺さったような気がした。
 何故だろうか。
 彼といると、とても苦しい。何か、胸の奥に灯る感情があるのに、届かなくてもどかしかった。


「……本当に置いていくぞ」

「え? あっ!!」


 苛立たしげな声に驚いて視線を扉に戻すと、不機嫌そうに佇む晴明が。
 彩雪はすぐに駆け出した。

 そこで再び男を見やり、首を傾げる。


 そこにはすでに、男の姿は無かった。



.

[ 35/171 ]




栞挟