壱
彩雪は一人、糺の森を訪れていた。
つんと冷たい空気に目が覚める。
朝の散歩に向かう場所としてその森を選んだのは何となく行きたかったからだ。たまたま朝早く起きて、時間が余ったからふらりと屋敷を出て向かっただけ。
けれども不可思議な引力に引き寄せられるかのように、糺の森の奥へと進んでいった。
朝ぼらけのささやかな光すらも届かぬ暗い森はぼんやりと霞(かす)み、現と夢の狭間を歩いているような錯覚に陥ってしまう。不安になった時には一旦足を止めて足踏みし、地面の感触を確かめる。これは現だと確認する。
また足を止めて足を上げた彩雪はふと視界の端に何かが映り込んだような気がして足を下げた。それは玉響(たまゆら)のこと。だがその玉響に見たそれが気になった彼女は顔を上げて首を巡らせる。
そしてあっと声を漏らした。
――――白。
純銀とも見紛う清廉な白を纏う儚い美貌を備えた女人が独り佇んでいた。
輪郭の曖昧な彼女は、僅かな木漏れ日を受け、まるでこの世に無い存在のように煌めいている。……否、むしろその妖しくも清らかな気が彼女の美しさを際立たせているのかもしれない。
頭に狐を彷彿とさせる耳が生えているが、彼女を神の使い、或いは天女と言われても、彩雪は何の疑いも無く納得するに違いない。
彩雪は女人を熟視する。
彼女のことは、先日に一度だけ見ている。
だからこそなのかもしれない。その女人のことが、気になって仕方がなかった。
声をかけることすら憚られる清く冷涼な彼女は、ふと耳をぴくりと動かして表を少しだけ上げた。
視線が交差する。
直後、女人は驚いたように目を見開き、紅唇を微かに動かした。
聞き取れない。
「え……? な、なんですか?」
普通に声を出したのならば届かない距離でもない。
だのに聞こえないは届かないくらいに小さな声だったのか。
なら、近付いてみようか。
勇気を出して、身体の向きを変えて一歩前に踏み出す。
その時、風が吹いた。彩雪の黒髪を、女人の白銀の髪をさらりと揺らす。
儚げな女人は口をまた動かし、目を伏せた。
切なげな顔だ。こちらも胸が締め付けられる程の悲しみを湛えた……。
泣かないで、と心の中で女人にかけた言葉に重なり、
「……晴明」
女人の声が、鼓膜を擽った。
美しい、鈴の音のような涼やかな余韻を引く声だ。
されどそれに聞き惚れるよりもまず、女人の言葉に驚いた。
彼女の呟いた人名が、剰(あま)りにも近しい人間のものだったから。
「晴明様が……」
――――どうかしたのか。
口を出かけた声は突風に遮られた。
落ち葉すらも拾い上げる程の風に彩雪は顔を庇って目を細める。
風は暫し彩雪を撫でつけるように吹き荒(すさ)んだ。
まるで彩雪の問いを止めたかのような風に、彩雪は首を傾げた。
直後――――別の音。
大きな鳥が羽ばたいたかのような太い音だ。
それが離れていくと同時に、風も徐々に徐々に弱まっていった。
暫く待って顔を上げると、女人の姿は忽然と消えていた。
「あ、あれ……?」
周囲を見渡してあの神々しい姿を捜しても見つからない。
……夢、だったのだろうか。
いや、そんな筈はない。筈はないと思うのだけれど……自信が無い。
不可思議な事象に彩雪は現実を確かめたくて近くの樹木の幹に触れた。ごつごつとした感触は確かなものだ。ほっとした。
また周りを見回して、天を仰いだ。梢(こずえ)から漏れる日差しが朝日の位置を彩雪に知らせる。
「……もう、戻らないと」
三度ぐるりとみはるかして、彩雪は森の出口へと、元来た道を戻り始めた。
……が、不意に前方の茂みから飛び出した影に足を止める。獣かと思って身構えた。
飛び出したのは少女だ。黒髪に沢山の木の葉を付け真っ赤な袖をぱたぱたと揺らその姿は、見覚えがある。
「……澪?」
確かめるように怖ず怖ずと呼びかけると、彼女はくるりと身を翻した。
強烈な引力。
その眼差しは澪以外に有り得ない。
彼女はきょとんと瞬きを繰り返して彩雪に歩み寄る。
「さゆき」
「お早う、澪。昨日は大丈夫だったの?」
「おはよー」
挨拶を返す澪に、痛がる様子は無い。もう一度、同じ問いを繰り返すと、不思議そうに首を傾げられた。忘れてしまったのかもしれない。
「こんなに一杯葉っぱを付けて、何をしていたの?」
「きせー、みおとさざなみの森」
そこで、弐号の言葉が脳裏に蘇る。
そっか……澪は糺の森で育ったんだっけ。
さざなみって、もしかして世話をしてた獣のことかな。
昨夜も、その名前は聞いた。密仕の間、その姿は全く見なかったが。……いや、一度だけ、彼女の側に従っていた獣の後ろ姿を見たがそれだけだ。以降は何処にも見えなかった。
結局訊けず終いだったし……ここで訊いてみようかな。
「ねえ、澪。漣って誰?」
「さざなみ」
ややあって。
身体を舐めるような、不吉な声に背筋が凍った。
咄嗟に澪から離れると、その足元に大きな獣を見た。
……否、獣ではない。
猿の顔に狸の胴、虎の足、そして蛇の尾――――鵺、だ。
何処と無く、昨夜夜の仕事寮で一瞬だけ垣間見えた獣に似ているような……。
彩雪はざっと青ざめた。
ちょっと、待って。
この子が漣なの!?
足元にお座りする鵺の頭を、澪が撫でる。
「そ、その子が、漣?」
「さざなみ、友達」
「と、友達って……」
漣は座ったまま彩雪に近付こうとはしない。もしかすると、彩雪が怯えているのを察して敢えて動かないようにしているのかもしれない。
そう考えると申し訳ないとは思うものの……慣れるまでは、時間がかかりそうだ。
密仕の時に訊かなくて良かった、かも。
もし昨夜漣の存在に気付いていたら、まともに動けなかったかも。
冷や汗を流しながら、心から思う。
「さざなみ」
「う、うん。分かってるよ。大丈夫。と、とにかく……えっと、これからよろしくね」
やっとのことそう言うと、漣は至極申し訳なさそうに頭を下げた。
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