弐
ぞろぞろと、仕事寮の仕事人達が部屋を後にする。
それを見送りながら、話についていけず困惑したまま動けずにいる彩雪をぼんやりと眺めながら、澪はこてんと小首を傾げた。
側に残った漣が鳴くと同時に、晴明が彩雪に話しかける。問答の後に晴明が彼女に武器にと手渡した舞布から、清浄で晴明の気配と似たものを感じるのに興味を持った。
ぱたぱたと駆け寄ってくいっと袖を引くと、彩雪は身体を震わせて澪を見やる。
上目遣いに見上げても頭巾に邪魔されて彩雪の顔が見えない。
屈んだりして彩雪を視界に収めようとすると、晴明が呆れた風情で吐息を漏らして頭巾を剥いだ。
「だから……お前は物覚えが良いのか悪いのか単純馬鹿なのか……」
「晴明。晴明が用意くれた羽織が気に入ってるんだろう?」
揶揄するように和泉が言う。
澪は彼の言葉を少々遅れて理解し、諸手を上げて態度で肯定した。
すると、扇で頭を軽く叩かれた。
きょとんと見上げると、彼は背を向けて階段の方へと歩いていく。
それを追おうとした彩雪の袖を摘んで二度引いた。
「あ、ど、どうしたの? 澪」
「さんごー、さんごーさん、さゆき、しきがみちゃん、こーはい」
「え?」
彩雪は瞠目した。
澪は彩雪を指差して、もう一度繰り返す。
「さんごー、さんごーさん、さゆき、しきがみちゃん、こーはい?」
「え、えと……どれがわたしの名前かって、こと?」
頷く。
すると彩雪は少しだけ嬉しそうに、安堵したように笑った。
「彩雪。私の名前は、彩雪って言うの」
「さゆき? さゆき、さゆき」
再び諸手を上げると袖が揺れる。
彩雪は安堵した風情で頷いた。
と、足下にいた弐号が彩雪の袂を引いてくる。
「……弐号くん? どうかしたの?」
「参号、これ着ときー」
「これって……」
……着物である。
ふわふわした弐号の手の上に載せられた、綺麗に折り畳んだ着物だ。薄紅を基調としたそれは恐らく彩雪の為に用意された物なのだろう。
彩雪は不思議そうに緩く瞬きした。
「え、えっと、ずごく可愛いと思うけど……」
「参号のために特別に用意した、とっときの逸品やからな! 密仕の時はこれに着替えるといいで!」
嬉々とした弐号に、しかし彩雪は難色を示す。
「……着るのはいいけど、別に今じゃなくってもいいんじゃない……かな? だってほら、……みんなを待たせることになるし……」
「わかっとらんなー、参号は。こういうのは形から入るのが大事なんやで?」
「形から、って……」
なかなか首を縦に振らぬ彩雪を、弐号は無言で見上げて促す。
彩雪は一瞬目を逸らし、観念したように肩を落とした。
「……わかった。……わかったからそういう目で見ないでよ」
はああ、と彩雪は嘆息する。
「すぐに着替えるから置いていかないでね?」
「おぅ、わかったわ!」
気を良くした弐号は、澪と漣を呼んで階段の方へと歩き出す。
それに反応して、澪と漣は同時に歩き出した。後ろから弐号を抱き上げて翼を噛む。漣が咎めるように鳴いた。
それに、後方で彩雪が「えっ?」と頓狂な声を上げたが、彼らには聞こえていなかった。
「今の獣、……何?」
‡‡‡
昨夜と同じ、死の世界。
小倉山の麓に広がる化野の不吉な風は、澪に悲しい嘆声を運んでくる。
月を仰ぎ、澪は前を見据えた。
蠢いている。
世を恨む異形が。
世を悲しむ異形が。
死者とは違う、闇の化け物達。
影と一体化したアヤカシが、澪達の生を奪おうと確かに息づいていた。
澪の隣で、彩雪が咽をひきつらせる。青ざめ汗ばみ、動きも強ばってぎこちなくなる。
化野に入ってから、彼女はずっとこの調子だ。
けれども、そんな彩雪を嘲笑うように、唸り声が周囲から上がる。
彩雪が怖じて後退りした。
――――パキ。
それは小枝の折れる音。
後ろへ退がった彩雪が踏んだのだ。
刹那、つんざくような甲高い咆哮が鼓膜を貫いた。
彩雪が小さく悲鳴を上げた。恐慌状態に陥りかけた彼女を無表情に見つめ、緩く瞬きを繰り返す。
ややあって。
「……っ!」
彩雪は恐怖に負けた。
澪を置いてその場から走り出した。
澪は彼女の背を見送り、周囲をぐるりを見渡した。
――――囲まれていた。
彩雪を追いかけようにも彼らもついてくることになる。
化野に入る前に源信に彩雪の側を離れないようにと言い含められていたのだけれど、澪はその場を動かずに漣の頭を撫でた。
漣は澪に答えるように鳴いて、駆け出した。
くわと開いたあぎとからアヤカシ達とは違う不吉な咆哮を迸らせ、アヤカシの群に飛び込み蹂躙し始めた。
澪は背後から躍り掛かったアヤカシを避け彩雪とはまた別方向に走り出した。
外套の下から覗く魅惑的な目でアヤカシ達を捉えれば、それに惹かれるように澪を追いかけ始める。
それを、漣が一匹一匹噛み殺し、数を減らすのだ。
軽々と枯れ木の枝に乗り上げると頭上で猿のような鳴き声。
仰いだ先間近に異形が迫っているのに、澪は素早く枝から飛び降りた。
宙で一回転して危なげ無く着地した後、駆け出す。
やや遠くで、炎が天へと細い柱を立てたのが見えた。
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