足を止めて――――止まり損ねてつんのめってしまった――――彩雪が振り返った先にいたのは彩雪の主人だった。


「晴明、様……」


 晴明は鼻を鳴らした。


「喜べ……合格だ」


 彩雪は間の抜けた情けない声を漏らした。
 合格?
 何が、合格だって?


「まぁ、私には少々物足りない気もするがな」

「ご、合格?」


 眉間に皺を寄せてまじまじと晴明を見つめていると、彼は悠然とした足取りで彩雪に近付いた。そのささやかな所作ですら優雅で目を引く。

 困惑する彩雪の一歩前で、晴明は口角をつり上げた。


「お前は、澪とはぐれること無く自力で依頼を達成したからな。これで正式に仕事寮の一員ということだ」

「依頼達成……って楽器がまだ見つかってないし、それに、あの……わたし、勝手に違う依頼を受けてしまって……」

「だからなんだ?」


 晴明はけんもほろろに問う。どうでも良さそうな態度に、彩雪は首を傾げた。


「なんだって言うか……怒らないんですか?」

「ふん、怒られたいのか?」


 酷薄に歪んだ笑みに寒気を覚え、彩雪は全力で首を横に振った。
 途端に笑みが、変わる。
 普段の嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みとは正反対の柔らかいそれに彩雪はえっとなった。


「澪の自由勝手の酷さ、物事の優先順位――――それをわかっていれば十分だそうだ」

「優先……?」


 薬と琴を秤に掛け、命に重きを置いて薬を選択したことだろうか。
 澪は……まあ、確かに自由勝手だった。子供のように興味があればすぐに飛んでいってしまいそうになる。頼子に唐菓子(からくだもの)を出されて即座に飛びついてしまったし。
 澪をきちんと――――と言うには疑問符が付きそうだが――――制御し、なおかつ先に薬を届けたから、合格になったんだろうか。

 合格……ってことは、試験?
 その時、頭の片隅でかちりと何かがはまったような気がした。

 澪という、初仕事行うには厄介なくらいに自由な相方を付けたこと。
 宮中で彩雪に接触し、色々と助言をしてくれた源信や壱号。
 別れる直前のライコウの態度。
 お隠れになるには元気なお姫様。
 分かった。
 これらは皆、試験だったのだ。

 彩雪は眩暈を覚えた。顔に、熱が集中していく。
 だけれど――――自分に正直な行動で立派に仕事寮の一員として迎えられると思うと、踊り出してしまいそうなくらいに嬉しかった。羞恥は歓喜に変わり、心地良い温もりが胸を満たす。
 彩雪という存在を認めてもらえたような気がした。

 小さく笑声を漏らすと、晴明の秀麗なかんばせが嫌悪に歪んだ。


「気持ちの悪い笑い方をするな。帰るぞ、馬鹿者。澪、お前も源信の学び屋へ戻れ。あいつはもう帰った筈だ」

「せーめー、さよーなら」

「さっさと行け」


 素っ気無く言って、晴明は背中を向ける。
 澪はこくりと頷いて彩雪の手をくいっと引っ張った。


「さよーなら」

「うん。また明日ね」


 手を離して頭を撫でてやれば、澪は身体を反転させて駆け出した。あっという間に遠ざかり、小さくなっていく。
 あれが全力でないことは彩雪でも分かった。
 獣のような少女、確かにそうだ。

 見えていないだろうけれど、彩雪は彼女に向けて大きく片手を振った。



‡‡‡




 学び屋に帰ると、源信は子供達に囲まれて笑っていた。
 澪はその様を見、くるりときびすを返して屋根に軽々と登る。
 そして、その後ろに獣が従う。漣だ。

 彼はずっと参号と澪の側にいた。参号にも見えないように配慮しつつ、澪の動向を注視していた。勿論、澪も彩雪の前では漣と話さないように和泉から言い聞かせられていた。
 漣は、まだ参号に見せてはいけない。そう、和泉と源信が判断した為だ。彼は穏やかで面倒見が良いが、見てくれが物騒なのだ。

 漣の毛並みの良い身体を撫でつつ、澪はきゃらきゃらと騒ぐ子供達の声に耳を立てる。
 学び屋の中に入らず、こうして屋根の上で待つようになったのもつい最近のことだった。
 真剣な子供達の邪魔をしてはいけないと、生活した中で澪が会得したささやかな《気遣い》だった。

 学び屋の側を通り過ぎていく近所の人間が、澪に気付いて声をかけていく。
 それに片手を大きく振って応えれば、相手も手を振り返してくれた。

 源信の人徳から、彼の周囲の人間は澪の世話を焼いてくれる。左京市でも、偶然会うと色々と教えてくれたし、代わりに値切ってくれていた。
 見た目とは裏腹にこの辺りの子供達よりもずっと幼い澪を、源信の手が回らない部分を彼らが育ててくれた。

 学び屋の時間が終わると、子供達が出て行く。
 澪が屋根で待っているのを分かっているので、彼らは一様に屋根の上を確認し、澪の姿を認めると大きく別れの挨拶をしてくれる。
 それにきちんと挨拶を返しながら全ての子供達を見送ると、それを見計らったように鷹の鳴き声がした。
 視線を橙に染まった空へと上げると、一羽の鷹が澪に向けて何かを落とす。
 澪は高く跳躍してそれを掴み、地面に軽やかに着地した。

 折り鶴だ。しかも、手触りの良い上質な紙で丁寧に折られたもの。
 澪はそれを開こうとして、止めた。
 学び屋に飛び込み、筆などを片付けていた源信に駆け寄って折り鶴を差し出した。

 源信は折り鶴を見るなり手を止めて持っていた筆を机に置いた。


「ありがとうございます、澪」

「宵闇に、黒より昏(くら)い、烏(からす)啼(な)く」


 何かをそらんじる澪に、源信は頭を撫でてやり、折り鶴を開く。
 そして中に書かれた文面を読み頷いた。


「澪。着替えて仕事寮に出かけましょう」

「密仕」

「ええ、そうです。きっと参号さんも参加なされるでしょうね」

「さんごー、さんごーさん、さゆき、しきがみちゃん、こーはい?」

「ああ……そうでしたね。参号さんの呼び方について考えなければなりませんね。後で、宮様にご相談しましょう。さあ、着替えて来て下さいね」


 澪はこくりと頷き、奥へと駆け出した。
 その後に、漣が従う。



●○●

 次は、密仕編になります。
 夢主の密仕服もそのうちに公開出来たらなと思ってます。


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