――――ここ、かな。
 目的地と思われる邸の前で立ち止まり、彩雪は深呼吸を二度。
 澪も、ようやっと肩で息をしていた。といっても彩雪に比べれば随分と余裕そうだ。少し走った程度のような。

 門は開け放たれ、来る者拒まずと言った風情で彩雪と対峙する。
 彩雪は周囲に家人らしき姿が見えないのを確認し、恐る恐る敷地内へと足を進めた。不法侵入であると分かっているが故にその足取りは重く、歩幅は小さい。


「お邪魔しまーす……」


 か細い声は響かない。
 澪はそれをぼんやりと眺め、ついていく。

 手入れの行き届いた庭に入ったところで、


「どちら様かしら?」


 声がした。
 鈴が転がるような、愛らしい声だ。鼓膜を擽るそれは心地良い。

 びくりと身体を震わせ、彩雪は忍び足を止めた。
 きょろきょろと周囲を見渡せば、簀の子からこちらを見下ろしている、声を裏切らぬ可愛らしい少女が。彩雪よりも、幾らか幼い。

 悪いことをしているようで――――いや、実際しているのか――――緊張が高まって上手く声が出せない。


「あら、ずいぶんお可愛らしいお客さんですね」

「よりこ」

「まあ、澪も。こんにちは」


 知り合いなのだろうか、『よりこ』という名前らしい少女は彩雪に視線を移すと、にこりと微笑んで会釈した。


「初めまして、参号さん。わたくしは頼子と申します」

「は、初めまして、彩雪です。……えっと、頼子ちゃん」


 ……あれ?
 今『参号』って、呼ばれた、よね?
 心の中で首を傾け、頼子を見上げる。

 頼子は微笑ましそうな柔らかな眼差しで彩雪を見下ろし、欄干から少しだけ身を乗り出した。


「それで、参号さんは何か御用があってこちらにいらっしゃったのでしょ?」

「あっ! そ、そうだった! こ、これ……えーっと」


 薬を探して袂に手を入れる。こぼしてしまわないようになるべく慎重に、かつ迅速に。
 そうして取り出した薬を持って、彩雪は頼子に駆け寄って差し出した。


「これを、ここに住んでいる病のお姫様へって言われて……」

「ありがとうございます、参号さん」


 頼子は薬を受け取って、少しだけ嬉しそうに笑った。


「じゃあ、これ、その人に渡してもらえる?」


 薬を袂へと滑り込ませる頼子は袂を押さえ、目を伏せた。


「いいえ、この邸に住んでいる姫――――はわたくしだけですもの」

「え?」


 頼子は袖で口元を隠して笑声を立てた。


「これはわたくしへのお薬ということですわ」

「……えっ?」


 ぽかん。
 彩雪は顎を落として固まった。
 あ、あれ……?
 想像と、全然違う。
 切羽詰まった状況であるとばかり思っていた件の姫が、如何にも元気そうな頼子?
 己の想像と現実の差異に困惑し、薬がしまわれた袂と頼子の顔を交互に見た。

 すると頼子は彩雪の心中を察したようで、


「あ、参号さんは別にだまされたりしていませんよ?」

「……ほ、本当に?」

「えぇ、もちろん。わたくしにこのお薬が必要なのは確かですから。……本当に助かりました」


 頭を下げられ、彩雪は反射的に頷いた。

 ふふ、とささやかで愛嬌の籠もった笑い声を立て、頼子は目元を和ませた。頬に僅かな赤みが差し、同性の彩雪ですら胸をときめかせる。


「そうだわ、よろしければわたくしの部屋へよっていってくださらない?」

「え? でも……」

「新しい唐菓子が手に入ったんです。是非、澪に召し上がっていただきたくて」

「からくだものっ」


 澪が反応し、簀の子に上がろうとする。
 それを彩雪は慌てて止めた。

 澪は不満そうに彩雪を振り返った。

 頼子も、首を傾けて彩雪を再び誘ってくる。
 庇護欲を駆り立てられる様に彩雪の胸は罪悪感に痛んだ。

 しかし、彩雪にはまだすべきことがある。


「あの……ごめんなさい」

「あら? 何かご用があるのかしら?」

「うん。大切な用事なの……だからごめんなさい。澪も、まだ琴を探さなくっちゃ」

「むー……」


 腕をくいくいと引っ張って訴えてくる澪に、それでも彩雪は駄目だと断じた。
 すると、しゅんと肩を落とし、視線を地面に落とす。
 ……本当に、子供だなぁ。
 見た目は彩雪とそんなに変わらないくらいなのに。

 澪の頭を撫でて宥めていると、頼子が小さく笑った。


「いいんですよ、参号さん。突然お誘いしたわたくしがぶしつけだったのです。澪、唐菓子は近々源信様にお渡ししておきますわ」

「んー」

「参号さん。もし時間があったら……、またここに来てくださらない?」

「え? あ――――あ、もちろんっ!」


 大きく頷けば頼子という花が綻ぶ。
 嬉しげな笑顔に、彩雪も笑みを返すと名残惜しそうな澪の手を引っ張って――――顔の割に、踏ん張ったのは一瞬だけだ――――邸を後にした。


「また今度二人で遊びに来ようね」

「……遊ぶ?」

「うん」


 澪はこくりと首を縦に振った。

 頼子に見送られて、門を抜ける。
 目の前の道を走り抜ければ、大内裏は見えてくる。
 記憶を手繰りつつ、身体の向きを変えて駆け出した。

 そんな折りに、その声は聞こえた。


「おい、止まれ」


 ……既視感。



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