振り返った先にいたのは、気弱そうな貴人である。
 彼は何故か右の袂を大事そうに抱えて彩雪の前に立つ。猫背だが、ひょろりとした貴人は背を丸めても彩雪よりも頭一つ分高い。


「貴女は仕事寮の方ですよね?」

「あ、はい。そうですけど……どうかしましたか?」


 と言っても、今日が初仕事なのだけれど。
 心の中で付け加えて頷いてみせると、貴人は安堵したように笑った。彩雪に向けて深々と頭を下げた。


「貴女にお願いがあるのです」

「お願い……ですか?」

「……はい」


――――困ったな。
 初仕事の途中なのに。
 真摯な表情で首肯する貴人を見上げながら、彩雪はちらりと空の色を窺った。

 日は、もう傾き始めている。
 つい先程方針が定まったばかりだというのに、これでは夜までかかってしまわないだろうか。
 それに彩雪の探している琴は先帝のお気に入りの楽器だったのだ。この依頼はとても重要なものなのだ。
 一瞬、主の綺麗な笑顔が浮かび、悪寒が走った。


「あの、わたし……今、お仕事を頼まれちゃってて。ごめんなさい、……今のお仕事が終わってから、じゃダメですか?」

「……それでは遅いのです」

「え……?」


 貴人は悲痛そうに目を伏せ、絞り出すように告げた。


「こ、これをあの方に届けなければ、お隠れになってしまうかも知れないのです!!」


 ……お隠れ?
 お隠れって――――確か、


 亡くなってしまうことじゃなかったっけ?


 彩雪はさっと顔色を変えた。


「ど、どういうことなんですか!? 詳しく聞かせてください」

「その……こちらの紙の中には粉末にした薬が入っているのです。これをとある貴族の姫に届けていただかないと……」


 『これ』の部分で抱えた袂から大事そうに取り出したのは帖紙(たとうがみ)。その中に、彼の言う薬が入っているのだろう。
 差し出され、彩雪は表情を曇らせた。

 彼も余程逼迫(ひっぱく)している状況なのだろう。
 命が関わっているのだ、それも当然のこと。
 彩雪とて、人命が懸かっているのなら率先して引き受けてあげたいとも思う。

 だが――――先帝という要素は、剰(あま)りにも重かった。

 なかなか受け取らない彩雪に、貴人は言い募る。己の思いを飾り気の無い真っ直ぐな言葉にして重ねて彩雪に揺さぶりをかける。


「本当は今すぐにでも届けにいきたい。ですが、暦によれば私にとって最悪の凶方にあたるのです。方違えをしていては到底間に合わないし……ああ、あぁ、困ってしまった」

「……あ、の、」

「お願いです。なんとか、この薬を届けてはもらえないでしょうかっ!」


 また頭を下げられて彩雪はたじろいだ。
 その願いを聞いてあげたい。姫を救ってあげたい。それはまったき本心だ。
 だけども――――。

 命か、先帝か。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう、
 頭を抱えたい衝動に駆られ、それを抑えるように澪の手を握る手に力を込めてしまった。
 天秤は彩雪の中で大きく揺れ、なかなか比重を定めない。

 すると、澪がまた袖を取る。


「あ、澪……」

「……」


 どうするの、と引力の強い双眸で問われているような気がした。
 だけども責めるようなものは全く感じられない。

 ……これは、彩雪の都合の良い解釈かも知れない。
 澪は、彩雪が優先したいものを選ぶのをじっと待っているような気がした。一旦貴族から彩雪の意識を逸らしておいて、その上で熟考を促しているような――――いや、さすがにそれは深読みしすぎか。

 彩雪は澪の頭を撫でて目を伏せた。深呼吸を一回、二回……繰り返す。

 そして、

――――やっぱり、命には代えられないよ。
 正直に、消えそうな命を優先しよう。


「……わかりました。薬、貸してください」

「本当ですか!? 本当にいいんですか!」


 彩雪は強く頷いた。胸を刺すモノには、見ないフリをして。


「はい、それで……場所はどこなんですか?」

「これはどうぞ! 地図が書いてあります」


 薬と共に手渡された紙には黒い線が縦横に何本も引かれていた。それが大路、小路を示しているとは、何とはなしに察せられた。
 その中に一つ、分かり易く書かれた印がある。ここが、件の姫の邸なのだろう。


「じゃあ、お預かりします!」


 急ごう。急げば間に合うかも!
 澪を呼んで、彩雪は駆け出した。
 全力で走って大丈夫だろうかと思ったが、獣同然に育っただけあって、軽々とした顔でしっかりとついてきている。いや、むしろ澪にとって彩雪は遅いのかも知れない。

 彼女の健脚に舌を巻きながら、彩雪は駆けた。



――――背後で、貴人が消えたことにも気付かずに
 ぱさり。
 人型の真っ白な紙が簀の子の上に舞い降りた。



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