壱
朝、弐号と共に仕事寮に出仕した彩雪は、部屋に入ってえっとなった。
一斉に自分達に向けられた皆の視線に時間は間違っていただろうかと不安になった。
それを払拭するように、弐号が声を張り上げた。
「おはようさん。今日はみんな早いんやな?」
「おはよう、弐号。式神ちゃんもおはよう」
「お、おはようござ――――あれ?」
朗笑で迎え入れてくれた和泉の膝を枕に澪が眠っているのに面食らった。
澪を見下ろしていると和泉は口の前で人差し指を立て、澪の頭を撫でる。
「昨日は遅くまで散歩していたそうだからね」
「え、遅くまで?」
「夜行性って訳じゃないみたいだけど、気になることを見つけると時間を忘れて追いかけちゃうんだ」
まるで子供だ。
無防備な寝顔を晒す澪を覗き込み、和やかなそれに口角が弛むのが止められなかった。とても、危険な仕事が出来る人物だとは思えない。姿は自分の外見と大差無い年齢だというのに、その寝顔ですら子供のようにあどけない。
暫くじっと見つめていると、
「晴明と壱号だけで来るからどうかしたのかと思ってたよ。もしかして、またはぐれちゃったのかい?」
穏やかに揶揄され、彩雪は声を荒げた。
「っ、違うよ! もう、それは忘れて!」
「あはは、ごめんごめん」
彩雪は唇を尖らせて恨めしげに和泉を見やれば、彼はくすくすと笑った。
ほうと吐息を一つ漏らし、気を取り直す。
「……でも、わたし遅刻しちゃったかな?」
源信が小さく笑声を漏らし、首を左右に振った。
「……いいえ、まだ出仕の時間はきていませんよ」
「そうそう、時間まではまだあるから大丈夫だよ。……まぁ、でもせっかく早めに集まったんだから、もう始めちゃおうか?」
澄み切った和やかな声で告げられる。
途端、場の空気が変わったような気がした。張り詰めたそれに、自然と背筋が伸びた。
和泉は澪の肩を軽く叩き、名前を数度呼ぶ。
ややあって、澪の瞼が震えて上体を起こす。目を擦りながら和泉を見上げた。寝起きでぼーっとしているらしく、母音を伸ばして欠伸した。
「これから仕事だよ、澪」
「しー、ごとー……?」
こくんと小さく頷いて和泉の横に正座する。だが、まだ眠たそうだ。
その姿を見るだけでも、彩雪の緊張も幾らか和らいだように思う。
和泉の目は面々を見回してから、彩雪で止まった。
「じゃあ、まずは参号から……」
「え、わたしから!?」
素っ頓狂な声を出す参号に、和泉は首肯する。
「うん、わりと急ぎの仕事だから早めに出て欲しいんだ」
「急ぎって……ひょっとして、わたしひとり?」
「ううん。大丈夫。澪も一緒だ。別に危険な仕事でもないから、澪の扱いに慣れて仲良くなる為にも、雰囲気を掴んでもらうためにも、今回は双陣でがんばってくれるかい? 澪も、参号のことをよろしくね」
「さんごー、双陣?」
「うん。今日は澪と参号で双陣」
澪は和泉と彩雪を交互に見て、すっくと立ち上がった。小走りに彩雪に駆け寄って隣に端座する。
小動物のような澪が一緒に来てくれることは、この時の彩雪には心強く思えた。……弐号や壱号が同情的な目で見ているのにも気付かずに。
澪に笑いかけた和泉は、言葉を続けた。
「もちろん、多少の助言くらいは出来るから、困った時は誰かに話を聞いてみるといいよ」
「う、うん。なんとか、がんばってみるけど。それで……その、わたし達の仕事の内容って」
「あぁ、そういえば重要なところを言ってなかったね。えぇーっと……」
思い出したように袂を探し始めた和泉は、少しして動きを止める。
彼がそこから引き抜いたのは折り畳まれた紙だ。何か書かれているらしい。
和泉はそれを開いて流麗に走った文字の羅列を追う。
「……ひと言で言うと楽器がなくなったから探して欲しいっていう依頼だね」
「楽器……? って、何で楽器を探すのが緊急なの?」
楽器なんて、大内裏の中には沢山置いてある筈だ。一つ二つ紛失した程度、すぐに困るようなものではないと思うのだけれど――――。
ああ、もしかして全部無くなったのかもしれない。難しいことだけれど。
首を傾けると、和泉が小さく笑声を立てた。
「いいところに気が付いたね? なくなったのは普通の楽器じゃないんだ」
「どういうこと?」
「ただの楽器ならなくなってもどうにかなるけど、」
和泉は言葉を区切り、笑顔に苦みを加味する。
曰く、無くなったのは先帝が気に入っていた楽器だという。
先帝を偲んだ演奏会を今夜催そうとの話が持ち上がっているのに、その楽器が無くなったともなれば確かに事は急を要する。
彩雪の中で使命感が芽生えるが、それを踏み潰すかのように不安が吹き上げる。
もし……もし失敗してしまったらどうなるんだろう。
怒られるだけじゃ……済まないよね、きっと。
失敗すれば確実に、仕事寮の信用も落ちてしまう。
失敗、出来ない……。
青ざめて沈黙した彩雪を、和泉は気遣って声をかけた。
と、不意に。
頭に何かが載った。
誰かと思えばそれは澪で、無表情に彩雪の頭を撫でる。
彼女なりに、元気づけてくれているのだろうか。
「……あ、ありがとう、澪ちゃん」
「……?」
澪はこてんと首を傾けた。その目に、気圧された。
すると、源信が彩雪を呼んだ。
「澪のことは、呼び捨てで呼んであげて下さい」
「え? どうしてですか?」
「澪に、《さん》や《殿》などを付けてしまうと、そのまま名前だと認識してしまうんです」
「前にライコウが『澪殿』って呼んでて、それが自分の名前なんだって認識しちゃってね。名前を聞かれた時『みおどの』って答えちゃう時期があったんだ」
ライコウが反応を示した。俯いていた。
澪は今度は彩雪の頭をぽふぽふと叩いてきた。
「澪?」
手が止まる。
じっと凝視された。吸い込まれそうになって、思わず目を逸らしてしまう。惹き寄せられるけれど、呑み込まれてしまうのは怖かった。
和泉を見据え、声を少しだけ大きくした。
「……大丈夫。やってみるよ! ちょっとというかだいぶ不安もあるけど、やる前から出来ないって言ってもしかたないもんね」
精一杯のことをしよう。結果についてはまた後で考えれば良い。
それに、これは初めて仕事をする彩雪に、和泉が当ててくれた仕事なのだ。きっとやり遂げると思ってくれている。それを裏切ることは出来ない。
両手に拳を作って、大きく頷いた。
和泉は引き締められた彩雪の表情に目を細めた。
「……そっか、じゃあ俺はここで応援してるよ」
「うん。和泉の仕事は『司令塔』なんだから、ここでどーんと構えて、わたし達の応援よろしくね」
「どーん」
「ははは、式神ちゃんも言うねぇ。それじゃあ、俺が早く仕事を始めるためにも、参号に担当してもらう依頼について、説明しようか。澪も、ちゃんと聞いてね」
「うん、お願い」
「どーん、どーん」
頭を撫でるのを止め彩雪の言葉を繰り返す澪に、彩雪は思わず頭を撫で返してやった。
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