澪は野を駆けていた。

 あの後源信に野菜を押しつけて何も言わずに出立した。

 行く先は西――――化野。
 古くは風葬の場だったその場所は、《あだし》にかけて儚いものの象徴としてと詠われる。
 その罪人墓場にて、足を止めてぐるりと周囲を見渡した。ここに至る時には、すでに世界は太陽の加護を失い、不穏でしめやかな月光を浴びていた。
 冷たい荒野には各々日光を求め伸びた雑草が埋め尽くし、その合間に破壊し代わりの粗末な岩が点々と覗いていた。それらは闇に呑み込まれた地平線の向こうまで続いていた。

 土の臭いを孕んだ冷たい風が澪の身体を不吉に舐め上げる。
 澪はそれに構わずに爪先立ちになって彼方を見遙かした。

 しんと静まり返った世界に、梟(ふくろう)の鳴き声はなんとも恐ろしい。
 されど澪は怯えた様子など微塵も見せず、普段通りの足取りで、まるで散策するかのように歩いた。
 漣が周囲を警戒して草の中に身を隠しながら澪の側を歩く。

 この野は、《死んでいる》。
 澪にはそう感じられた。
 勿論、生き物の気配はある。
 けれども、それはあまりに希薄で、死の気配があまりに濃厚で。
 この荒野は不吉な、夜闇に別なる黒を加味したような、異質な場所だった。

 その中で、不意に唸り声が上がる。
 一つ上がればすぐに二つ、三つと重なっていく。全ての生き物とは違った声は、地獄の呻吟(しんぎん)と間違える程に低く、地を這いずる。
 澪は漣と共に後ろへ跳び退った。

 それなりに距離を取れたと思えば足を止め、薄く口を開いた。


「りん……臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行(ぎょう)」


 一言一言しっかりと発音し、胸の前で両手を一言につき特定の複雑な形に組んでいく。発音の割に、手の動きだけはややぎこちなかった。
 暫くすると呻き声は止み、死の香りが凝縮された荒野に再び静寂が訪れる。

 けれども、澪はこの状態が長く続かないことを分かっていた。
 だから、それ以上その場に留まることをせずにきびすを返した。漣を呼んで一目散に駆け出す。

 程無くして、呻き声がじわりじわりと盛り上がるようにまた発生するのを耳で確認し、更に速度を上げた。



‡‡‡




 宵も深まる丑三つ時。
 澪はとある屋敷に忍び込んだ。
 忍び込んだと言えど、それは実に堂々たるもので、築地を上り軽々と庭に飛び降りた。

 漣は、故あって側にはいない。築地の向こう側で大人しく待っている。

 澪は築地を振り返ってきょろきょろと周囲を見渡した。誰かを捜すように、ぱたぱたと中庭を走り回って邸の中を覗き込む。簀の子に上がろうとしないのは、他人の家に勝手に上がり込むなと教えられているからだ。無断で敷地に侵入するのは、この邸だけだ。

 と、澪は肩を小さく跳ねさせて身体を反転させた。

 直後、ぱこんと扇で軽く叩かれた。痛くないので上目遣いに相手を見上げ、


「変、泣く、一杯」

「……」


 溜息が降りかかった。
 相手――――晴明は柳眉を顰めた。


「待て。全く分からん。何処で、何を見たのか言え」


「私は源信ではないのだぞ」と、もう一度叩かれた。
 澪は頷いて暫し思案する。
 そして、西を指差してまた口を開いた。


「死ぬ、人。泣く。一杯、の、あやかし。変」

「西……噂の化野か」


 晴明は澪の指差した方角の空を見やり、すっと目を細めた。


「いない。一杯、いない。だから、泣くの、いる、一杯」

「分かった。もう良い。それは明日、和泉にも言っておけ。これで終わりならもう帰れ。お前の帰りが遅くなる度に源信が邸に来るのは鬱陶しい」


 澪はこくんと頷き、身体の向きを変えた。
 一跳びで築地に上がり、晴明を振り返る。

 晴明は辟易した風情で見上げた。


「何だ」

「お、やすみ?」

「訊くな。いい加減挨拶くらい覚えないか」


 これ見よがしに嘆息してみせるが、澪は気にした風も無く築地を降りた。
 漣が小さく鳴いて澪を迎え、共に駆け出す。

 足の速い澪と漣ならば、源信の家へ真っ直ぐ帰るのに、さして時間はかからない。

 灯りの灯った学び屋に飛び込めば、常と変わらぬ穏やかな空気をまとう源信の笑みが彼女らを迎えてくれた。
 小走りに駆け寄ると、源信は笑みを苦笑に変えて「もうご飯は食べてしまいましたよ」と、握り飯を差し出した。

 澪は拙い謝辞を述べ、握り飯を二つ取って片方を漣に差し出す。漣が一口食べ、また一口食べ、食べきるまで握り飯を持ってやった。
 漣が食べ終わったのを視認し、自らも食べ始める。

 彼女の様子を眺めながら、源信は安堵した表情で吐息をこぼした。


「今日は、何処へ行っていたんですか」

「一杯、死ぬ、泣くの、人」


 晴明にしたように、西を指差す。

 すると、源信の表情が陰った。


「……そうですか。アヤカシに襲われませんでしたか?」

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行(ぎょう)。あやかし、止まった」

「おや、今日はちゃんと効いたのですね。それは良かった」


 ……本当に。
 ぼそりと付け加え、源信は澪の頭を優しく撫でた。



○●○

 夢主だけになると科白が極端に減りますね……。
 ちなみに夢主の身体能力は非常に高いです。野生児なので。



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