あれから、仕事寮でささやかな宴を催した。
 一連の事件が決着した祝いと、晴明や彩雪をねぎらう為だ。気付けば壱号弐号も合流していて、変わらぬ騒々しさで空気を明るく乱していた。朱雀については、彩雪は晴明に追求しなかった。する必要がないと思った。
 夜明けと共に用意された食事は豪勢で、のみならず和泉のつてで楽師が数人手配されていたことには驚いた。
 急ごしらえなのに素敵な慰労宴だった。

 けれど――――何処か寒々しく感じられるのは、澪がいないからだ。
 澪だけじゃない。
 漣(さざなみ)だった金波と銀波もいない。
 皆、黄泉へ帰ってしまった。

 もう二度と会えないなんて思いたくない。
 だけど心の片隅でそれを肯定している自分がいる。
 生と死――――それは隣り合わせに位置しながら、決して交わらない対極。
 自分達と澪達も同じだ。
 今まで仲良く暮らしていたことこそが、理に反していた。
 頭では分かっている。
 それぞれが本来在るべき場所に戻るだけなのだと。

 分かっている。
 正しい形に戻っただけだって。
 ……でも。

 仕事寮の誰もが、彩雪と同じ気持ちだった。
 宴は楽しい。でも、大切なものが欠けている。
 もしも澪があの時冷たい別れを選ばずに本心をさらけ出していたら、きっとこの程度では済まなかっただろう。もっともっと喪失感が強まっていただろう。

 だからといって、あの別れが正しかったとは断じて思わない。

 物足りない宴を終えた後、一日邸で身体を休めた。
 といっても、休むべきなのは晴明と、壱号弐号の方。
 彼らに比べれば問題のない彩雪は彼らの様子を気にかけながら、いつも通りに家事をこなした。

 晴明も、やはり強がっていただけで消耗は大きかったようで、一日の大半を寝て過ごした。夜には、随分と回復したようだが、まだ油断は出来ない。

 あと数日は大人しく休んでいてもらおう。
 彩雪は、そう思っていた。

――――だのに。

 更に翌朝、彩雪は簀の子を大わらわで走っていた。
 手に握り締めた文はぐしゃぐしゃで、そこに書かれた文字が辛うじて見える。
 晴明の文字だ。

 起き抜けに弐号がこの文を持って部屋に飛び込んで来た時には驚倒した。
 そして晴明の文字を目で追って、鈍器で頭を殴られたような重い衝撃に襲われた。

 混乱しながら門を飛び出した出た彩雪は、きょろきょろと辺りを見渡し、目を凝らして遠くまで彼の姿を捜した。

 だが、


「……いない」


 見慣れた晴明の背中は、何処にも無くて。
 落胆によろめいた彩雪は文を抱き締めて門柱に寄り掛かった。
 皺だらけの文を開いて、改めて晴明が残した言葉を読んだ。


『次の任務へ向かう。戻ってきた時に面倒なことになっていたら、容赦はしない』


 要約すればそんな感じ。
 晴明らしい言葉だが、これはあんまりだ。
 彩雪は、深く溜息をついた。
 胸を重くするのは、心配だ。

 晴明様……まだ本調子じゃないんじゃないの?
 それなのに黙って云ってしまうなんて。
 わたしは晴明様の傍に、ずっといたいのに。


「……馬鹿晴明」


 思わず漏れた恨み言。
 それに反応する男はおらず、ただ虚しいだけ。
 空虚に響いた己の言葉に肌寒さを覚えた彩雪は唇を引き結んで俯いた。
 こんな風に感じてしまうのは、澪達のことがあるからかもしれない。
 そんなこと、絶対に有り得ないと分かってはいる。
 けれど、穴が開いたばかりの胸は、唐突に訪れる淋しさを過剰なくらいに怖がっているのだ。

 視界がじんわりと滲んでいく――――。


「おい、今呟いた言葉をもう一度言ってみろ」

「……」


 間。


「はい!?」


 突如降ってきたどす黒い声に身体が跳ね上がったのは、悲しきかな、調教――――いや、経験から身体に良くよく馴染んでしまった《反射》である。
 彩雪は目を丸くして背後を振り返った。
 だが、恐怖よりも寒さを追い払う歓喜が、彼女の胸に生まれていた。

 そこには、見慣れた嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みが。


「……主に対して、酷い言い様だな?」


 彩雪は、肩から力が抜けた。
 吐息をこぼす彩雪の顔を見て、晴明はうっと言葉を詰まらせるも一瞬、すぐに気を取り直して、彼女の鼻先に閉じた扇の先を突きつけた。

 彩雪は視線を僅かに落とし、


「だって、いきなり晴明様がいなくなるから……」

「だから『馬鹿』と?」

「……申し訳ありませんでした。晴明様」


 素直に謝罪する彩雪に、晴明は言葉を呑み込んだ。

 澪達が帰ったことで淋しさを感じているのは彩雪だけではない。
 晴明とて、胸に穴を開ける物足りなさを否めない。
 だから、咳払いをして、扇で小さな頭を叩いた。

 ややあって、彩雪は潤んだ瞳で晴明を見上げた。


「……任務、出掛けたんじゃなかったんですか?」


 責めるように主を質(ただ)す彩雪に、


「……黄泉から抜け出た、大怨の気配を感じたのでな。澪達が都を走り回ってまで集めていたが、まだ僅かに残っているらしい」

「それを……封じに?」

「ああ、なるべく早い方が良いだろう? お前達はまだ、体力が回復しきってないしな」


 それは、晴明とて同じこと。
 そう言うと、晴明は口角をくっと吊り上げて、


「お前と一緒にするな」


 と。


「晴明様……」


 眉根を寄せる彩雪を見下ろし、「一つ、忘れ物をした」扇を下げる。


「忘れ物? それって――――」


――――なんですか。
 言おうとした言葉は、呑み込んだ。

 いや、吸い込まれたと言った方が正しいか。 


「ああ。忘れ物は――――この熱だ」


 不意に間近に迫った透き通った緑の瞳に。


「あ……」


 彩雪の口から掠れた声が漏れた。
 身動きする暇も無かった。
 晴明の細く長い指に顎を捕らえられ、


 呼吸を奪われる。


 やや強引に、しかし柔らかく重なった唇から自分のものではない熱が伝わってくる。
 目を伏せた秀麗なかんばせを間近で見た彩雪は、ややあって身体から力を抜き、己も目を伏せた。

 淋しさも心配も恨み言も吸い込まれ、温かな安堵が胸に広がっていく。

 微かに動くぬくもり、肌を擽(くすぐ)る吐息、慈しむように顎を撫でる指先。
 大切な人から与えられる感覚全てを感じることに集中していたい――――。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 離れたのは晴明からだ。
 惜しむような声を漏らした彩雪に笑みを残し、晴明は颯爽と身を翻す。


「それでは行ってくる。後は頼むぞ、彩雪」


 返事を待たず、歩き出す。

 彩雪は、何処か夢心地で晴明の背中が離れていく様を見つめていた。
 そんな彼女の意識を、更なる驚きが引き戻す。

 角から曲がってきた影が二つ、晴明の隣に並んだ。

 思わず声を上げた。


「あ……っ!」


 彩雪の声が聞こえたのか、二つの影は彩雪を振り返る。
 足を止めて、深々と頭を下げ、微笑んだ。

 目が発する強い引力は、こんなに遠くからでも感じられる。
 意思を持つ尻尾が、まるで手を振るみたいに身体を左右に揺らしている。

 群青色の布包みを大事そうに抱えた黒い髪の少女と、少女を守るように寄り添う鵺(ぬえ)が、そこにいる。


「澪、漣……!!」


 彩雪は、今度こそ泣いてしまった。
 両手を大きく振ると、彼女達はもう一度一礼して、晴明を追いかける。


「また――――またねっ!!」


 声を張り上げる。
 彼らの姿が見えなくなるまで、彩雪はずっと手を振り続けた。

 見えなくなると、大急ぎで邸に戻り、追いかけてきた弐号を捕まえる。


「弐号くん!!」

「ギャス! な、何や参号!?」

「わたし今から源信さんの所に行ってくるから! 弐号くんは和泉達の所に行って伝えてきて!」

「待て待て待て! ちょお待ちぃや! 何を伝えんねん! 落ち着いて、一から十まで説明してくれな分からへんがな!」


 弐号に宥められ、彩雪は我に返る。
 興奮状態が幾らか静まり、彩雪は先程見た光景を口早に伝える。


「澪が、漣が――――」


 朝早く、安倍晴明邸が俄に騒がしくなる。



―完―

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