肆
その時の澪は、彩雪達に対し、淡泊なあっさりとした別れを選んだ。
けれど、彼女自身に未練があることは、誰の目にも明らかで。
だから源信は『行ってらっしゃい』と言葉をかけた。
彩雪も『またね』と声を張り上げた。澪達に、届いていたか分からないけれど。
澪達は黄泉の住人。現世での使命を終えた以上、これからは元の通り黄泉で与えられた役目を果たし続けなければならない。
そもそも生者の世界にいてはいけない存在なのだ。
黄泉に還ってしまったら、会えないだろう。
死して黄泉への道を辿るその時まで――――。
分かっているけれど、約束をしたかった。
この世界で、出来なかったことをしたいと。澪と標が生前したいと願ったことを叶えてあげたいと。
もしかしたら源信も同じ気持ちで、『行ってらっしゃい』と送り出したのかもしれない。……いいや、きっと、そうだ。そうに決まっている。
そして少なからず澪もそう願っている筈だ。源信に一礼した時の彼女の表情が、その証拠。
寒風が吹き抜けて行くような冷たい空虚感を抱えて閉じられた扉を見つめていると、肩が叩かれた。
「……晴明様」
「あれで良い」
短い言葉は、優しく、胸に開いた穴を塞いでくれた。
小さく頷く彩雪に、晴明は今度は頭を撫でた。
そこへ、
「ああ、すみません。私から、一つお伝えしなければならないことがあります」
黄泉へ戻らなかったらしい。
あの晴明が畏まっていた、飄々とした笑顔の男がゆっくりとこちらに歩み寄っていた。
そういえば、と彩雪は改めて彼を見る。
結局今まで彼の正確な素性について何も分かっていない。
……標が『仙人さま』と呼んでいた気がするが、度々垣間見えた柄の悪さは仙人とは程遠いものだった。
でも、今見てみると、身なりが大陸のものに見えなくもないような……?
首を傾げる彩雪の隣で、晴明が「その前に」腰を折って深々と頭を下げた。
「ご助力感謝致します。大陸の仙人たるあなたを巻き込んでしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
ライコウ達が驚いた表情で、慇懃な態度を取る晴明と、男を見る。
たった今心の中で否定したばかりの彩雪もぎょっとして晴明を凝視する。
「晴明様! こ、この人、本当に仙人なんですか!?」
「ああ。千年以上生きておられるお方だ。だから無礼な物言いは止めろ」
「うぅ」
頭を強引に下げさせられた。
ほ、本当に仙人だったんだ……!
あんなに柄が悪かったのに。
「ああ、柄が悪いのは、私、元は賊でしたので」
「えええ!?」
まるで彩雪の心を見透かしたような言葉に二重に驚いた。
「まあその話は関係ありませんので。実は、澪と金波さん達に関して黄泉の王から頼まれていることがありましてね」
顔を上げると、仙人はひらひらと片手を振りながら彼は彩雪に微笑みかける。
「生者の記憶から彼女達の記憶を消し去ります」
「え……」
彩雪は目を剥いた。
「それって、私達澪のことを忘れちゃうってことですか!?」
詰め寄ろうとする彩雪を晴明が引き止める。
「黄泉の王の頼みでは、あなた方も範囲に含まれていますね」
「どうして……」
「澪達が死者だから。黄泉の住人の痕跡を現世に残してはいけない……そういうことですね?」
穏やかな声で答えを出したのは、和泉だ。
彩雪が振り返ると、感情を抑え込んだややぎこちない微笑みを浮かべ、仙人を見つめている。
仙人は朗らかに頷いた。
「ええ、そうです。人々は澪の目の引力を受けている。彼女の目を一度見たことで、黄泉との繋がりが微かにも生じている恐れがあるのです」
「ではその記憶を消すことによって生まれた繋がりも消えると?」
問うたのは、ライコウ。
「完全には不可能でしょう。ですが、澪(ししゃ)の存在を意識しないだけでも十分な対策になります。人の一生は、とかく短いですから」
仙人の言っていることは、理解できる。
生者が、死者の世界に誘われることなどあってはならない。
それが自分の目の引力の所為であったら、きっと澪は気にしてしまうだろう。誰もが、澪を優しく見守ってくれた人達だから。
だけど……私は、忘れたくない。皆だってそうに決まってる。
澪はどう思うだろうか。
聡明な彼女のことだ、自分の立場を理解し、そうするべきだと賛同するだろう。
では、本心は?
頭に浮かんだのは源信に向けた澪の笑顔だ。
本心では、違うに決まってる。
彩雪はそう信じる。
と、仙人が手を軽く叩いた。
「――――とまあ、これが黄泉の王の意思ですが、実際施術するのは私ですので、細かい部分の決定権は私に委ねられています」
「それは、一体どういう意味でしょうか?」
仙人は源信を見て、己を指差し、
「実は私、死にかけなんですよね。ぶっちゃけるとそこまで余力が無くて」
へらりと言った。
彩雪は「へ?」頓狂な声を上げた。
仙人が……仙人が死にかけ?
寿命なんて無いと思っていたが、違うのだろうか?
「いや、そんな、まさか……」
「そのまさかなんですよー。ということで、私は出来ることなら楽をしたいんです。澪との記憶が多いあなた方の記憶を消すのは面倒臭いし、重労働なんですよねえ。今の話で事情をご理解いただけたと思いますので、お願いしますね」
にっこりと首を傾けて笑う仙人。
それって……。
「澪の心を、慮(おもんぱか)って下さったのですね」
「いえいえ。これはただの老人のずる休みですよ」
晴明の言葉を、のんびりと否定する。
構わず晴明は再び仙人に深々と頭を下げた。
仙人は肩をすくめ、和泉を一瞥する。
「……澪を慮ったというより、澪や金波さん達というまつろわぬ民がこれから国を動かす皇に与えた影響を、消さないほうが良いと思っただけですよ」
和泉が目を瞠る。
表情を引き締め、深々と頭を下げた。
「では」と、仙人は歩き出す。
彩雪達の横を通過し、黄泉比良坂へ入った。
「国はそう簡単に変えられない。生前の思いを全て呑み込んだあの子達の為にも、少しだけでも国が良くなるよう、願っておりますよ」
国の威信だの何だのの犠牲になる人の子を見るのは、もう勘弁したいのでね。
そう言い残して。
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