参
晴明の舞いに合わせ、厳かで、落ち着いた声が謡う。
心落ち着く謡いに導かれるように、澪は徐(おもむろ)に歩き出した。
澪は死人だ。
死人を鎮めるこの謡いに、この舞いに、心が安らぐのは当たり前のこと。
まるで温かな草原をのんびりと歩いているような穏やかな心地で父と慕う謡い手へ歩み寄る。
しかし、不意に後ろから手を握られ、引き留められてしまう。
振り返れば和泉がじっと澪を見つめている。
不安の色が滲む双眼を見返し、澪は微笑んだ。自分よりも大きな手を剥がし、和泉にも源信にも深く一礼する。歩き出せば和泉が小さく名を呼んだ。
その淋しげな声に後ろ髪を引かれる気がするのは、彼らの側で過ごした日々があまりにも穏やかで、温かくて、生前欲しかったものに満たされていたからだろう。
この心地好い儀式が終われば私は黄泉に帰る。
在るべき場所で、本来の役割に戻る。
彼らが死んで黄泉へ来るまで、会うことは無いだろう――――.。
胸がほんの少しだけ痛んだ。
もう少し長く、彼らの輪の中にいたかった。
出来れば今度は標や小舟も一緒に、穏やかな日々を過ごしていきたかった。
きっと……いいえ、絶対に私はあの日々を、親がくれなかったものを与えてくれた彼らのことを忘れないだろう。
永遠に。
彼らはどうだろうか。
私や、金波達のことを覚えていてくれるだろうか。
いつか、黄泉に還る日まで。
いつの間にか、足が止まっていた。
黄泉の王が謡いながら娘を見ている。
案じるように見ている。
父にはきっと、今澪が抱いている不安などお見通しだろう。
ぎぎ、と音がした。
黄泉へ続く扉が揺れている。
あの親子の鎮魂の儀に合わせるように、ぎ、ぎぃ、と揺れながら、僅かに開く。
その音に窘(たしな)められたような気がした。役目は何だと問われているような気がした。
澪は深呼吸して、少し下がっていた顔を上げた。前を見据えて、歩き出す。
黄泉の王の側で声に合わせて身体を揺らす標を見、微笑みかける。
標は小走りに駆け寄ってきた。
大事な妹と手を繋いで黄泉の扉へ進んだ。
扉の前には、金波と銀波、小舟を肩に乗せた獄卒鬼、姿を隠した菊花、そして迷惑をかけてしまった大陸の仙人が立っている。
ライコウは扉の前から退いている。彼らのうち誰かがライコウに言ってくれたのだろう。
やや離れた場所に立つライコウと、ライコウの側で主の舞いを見守る朱雀に一礼して、金波達に合流する。
それと同時に、黄泉の王の身体が薄れ始めた。
黄泉の王を見つめる金波は達成感に満ちあふれ、それでいて名残惜しげな笑みを浮かべた。
「そろそろ……ですね。澪様」
「ええ……」
黄泉の王は道満も、怨霊達もその身に納めた。
そして自ら鎮魂の術を受けることによって黄泉へ帰ろうとしているのだ。
ここでの澪標(みおつくし)の役目は、父が還る手伝いをすること。
「……参りましょう」
「えっ。良いんですか?」
銀波が目を丸くして澪と和泉達を見比べる。
澪は、頷いた。
これ以上いると、彼らと何かしらの言葉を交わすだけでも不安や未練が強まってしまいそうだとは、言わなかった。
世話になりっぱなしだった彼らに対し、なんとも冷たい別れだと自覚している。でもそうしなければ、黄泉へ還らなければならないこの身体が、動かなくなってしまいそうだったのだ。
気遣わしげな金波に微笑みかけ、澪は扉へ近付く。
仙人が無表情に見つめている。
澪が視線を向けると、作った笑みを浮かべて首を傾けた。
その様子から、彼は、黄泉の王から別に何か頼まれているらしいと分かった。
それが何か――――もしかしたら。
彼は澪達が現世に残した痕跡を消すのかもしれない。
心臓が跳ね上がった。
嫌だ……出かけた拒絶の言葉をすんでのところで呑み込んだ。
その時だ。
黄泉の王の声が止んだのは。
「我が娘澪を護り慈しんでくれたこと、心より深く感謝する」
ほとんど霞んで見えなくなった黄泉の王が、しかし、澪を見ているのが分かる。
「そして――――」彼の目が、舞いを終えた晴明へ向けられる。
「……これを、我が不肖の息子、将国のこと、頼むぞ」
黄泉の王――――平将門は、にっと息子に良く似た笑みを浮かべて、形を失った。
風となり生者の着物を踊らせ扉の隙間から黄泉へ戻っていく。
澪も風を追い標の手を引いて扉に手をかけた。
「澪」
澪を呼び止める声。
源信だ。
いつもと同じ慈父の笑みで、まるで遊びに出かけるのを見送るみたいに、
「行ってらっしゃい」
「――――」
その言葉に、胸がじんと痺れ、熱くなった。
けれど同時に未練が一気に膨れ上がってしまう。
澪は無理矢理笑みを浮かべ、頭を下げた。
「さあ、行きましょう」
『帰ろう』ではなく。
『戻ろう』ではなく。
『行こう』と、自然と零れた。
自分の発言に驚いた澪は表情に出すまいと唇を引き結び、扉の向こうへ身を投げた。
また、追い縋るように声がかかる。
「……っまた! 澪、またね!!」
今度は彩雪。
とても優しくて、酷い人達だ。
また、未練が強まってしまったじゃないか。
黄泉に着地し、澪は胸を押さえる。
標が顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? むね、痛いの?」
「……いいえ。何でもないわ」
役目を果たさなくては。
澪は頭を切り替えた。
目の前に立つ父を見上げ、澪は両手を伸ばした。
背後に金波達が着地し、獄卒鬼によって地面が揺れる。
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