しん……と静寂が穏やかに横たわる岩窟。
 直前まで彩雪の鼓膜を叩き、肝を冷やしていた激しい剣戟の音が嘘のように、穏やかな空気に満たされている。

 まるでいたわるかのように、優しく降り注ぐ朝日に照らされるのは、地に伏す男と、男に寄り添い座る獣の頭蓋を被った人物。
 男の傍らには折れた天羽々斬が無残に破片を散らし、きらきらと輝いている。

 終わった。
 長い――――長い夜は終わった。
 全て。

 もう、都が聞きに晒されることはない。

 彩雪は晴明に視線を移した。
 晴明は、道満を見つめている。

 声をかけたかった。
 けれど、わたしは何を言えば良いのだろう。
 分からない。

 道満は、晴明の父親を狂わせた。
 それだけではない。何度も晴明の心の傷を抉った。
 己の宿願を果たす為に。

 彩雪は瞳を揺らし、晴明に歩み寄ろうとした。

 その時だ。

 彩雪は朝日を遮る大岩の影で動いた《それ》に気が付いた。
 ぼんやりと浮かび上がるその輪郭は、しかしその存在感で以て彩雪を圧倒する。
 それが何か、彩雪にはすぐに分かった。

 分かったから、愕然とした。


「……あ、れは」


 思わず零れた言葉は震えていた。
 僅かに恐怖の滲んだそれに、晴明が過敏に反応する。


「彩雪? 何があった」


 満身創痍ながら小走りに彩雪へ駆け寄る晴明。
 彼はまだ、気付いていない。

 彩雪は、震える手をゆっくりと上げた。
 人差し指で、答える。

 その答えを明確に声にしたのは、無邪気な声。


「あーっ! お父さんだぁ!」


 標だ。
 嬉しそうにはしゃいだ彼女は、《父親》に駆け寄ろうとして金波に引き留められている。

 標の父親。
 それすなわち、黄泉の王――――。


「……将、門」


 将門が、一歩前に出た。
 影からは出ないものの、姿がよりはっきりと見える。
 魔王とも呼ばれた、黄泉の王。

 だが、彩雪の目にはとてもそう見えなかった。
 巌(いわお)の如き威厳があるが、今、岩窟に降り注ぐ朝日のように穏やかな武将であった。

 ふと、銀波の慌てた声がした。

 見れば金波の手を離れた標が将門に向けて駆け寄っている。
 将門は目を細め、影から出た。

 標はやや離れた場所から将門に向かって跳躍する。


「お帰りなさーい!」


 将門は難無く小さき身体を抱き留めた。
 片腕に乗せ、もう片方の手を天へ伸ばす――――。


「集うがよい」


 厳然たる声で、告げた。

 オオ、と鳴いたのは人か、霊か、風か。
 強い風が吹き付け、岩窟を抜けていく。

 間を置かず、風は数多の影を運んできた。

 怨霊達だ。黄泉の王の召喚に、当然のように逆らう様子は無い。
 将門のもとへ集まった数はあまりに少なかった。

 将門は静かに、少しだけ申し訳なさそうに、


「……澪か」


 この場にいない娘の名を呟いた将門は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。晴明を、じっと見下ろす。

 晴明は茫然と将門を見上げていた。圧倒されていると言うよりは、戸惑っている風に、彩雪には見えた。

 将門が、再び歩き出す。
 こちらへ、悠然と。
 従順に将門の片手に収まった怨霊達と共に。

 彩雪は喉を鳴らした。
 今度は一体、何を――――?

 胸に手を置く彩雪と、未だ声を出せずに立ち尽くす晴明を一瞥し、将門は道満に身体を向けた。
 道満に寄り添っていた人物が地面に手をついて将門へ平伏する。

 将門は頷いた。標を下ろし、


「……己が責、果たしてもらおうぞ」


 道満へ、その手を翳す。

 すると――――黄泉の王の掌の中央に黒い点が生まれ、急速に広がっていく。
 それは、穴だ。闇ばかりが広がる穴。
 ざわざわと蠢く縁は右回りに回っている。
 何処に繋がっているか分からないその穴へ、道満の身体は徐(おもむろ)に吸い込まれていく。


「道満さん!」


 彩雪は咄嗟に道満へ駆け寄ろうとした。
 されど、後ろから手を掴まれ引き留められてしまう。

 振り返ると、そこには標そっくりの少女。


「澪……」


 である。
 無表情に、彩雪を見つめている。


「なんで、」

「これより先は、《私達の》領域です」

「領域って――――」

「彩雪」


 晴明が、彩雪の肩を叩いた。


「……黄泉には、黄泉の掟がある。道満は黄泉を蹂躙した。その責任は、負わねばならん」


 彩雪はなおも物言いたげに唇を震わせるも、引き結んでうなだれた。
 泣きそうな顔を地面へ向ける彩雪の手を両手で包み、「大丈夫ですよ」と澪。


「その責を共に背負う方が、ちゃんといらっしゃいますから」


 微笑み、彩雪の手を下ろす。

 道満の姿は、もう無い。頭蓋を被った人物が残され、黄泉の王を見上げているのみである。
 彼と一緒に吸い込まれたのだろう、怨霊達も消えていた。

 澪は晴明に一礼し、その背後――――和泉達にも一礼して、将門のもとへ歩いていく。

 黄泉の王は娘を穏やかに迎えた。
 父を見上げる彼女に頷いてみせ、再びこちらへ目を向ける。

 深い深い瞳の色。
 何処までも透き通った緑の瞳。
 その色は、彩雪にとって馴染み深いものであった。

 自然、視線が晴明の顔へと移る。


 同じ、だ。


 そう感じた途端、彩雪は酷く動揺した。
 これって、この意味って――――。


「……魂鎮めを、願う」


 狼狽える彩雪をよそに晴明に乞う。

 晴明は将門を見上げ、深く頷いた。
 先程の一戦で着崩れた着物を手早く整え、扇を手にする。
 一瞬で広げられた扇が軽やかに弧を描いた。

 晴明の口が、朗々たる声が言葉を紡ぐ。


「全ての御霊に、幸あらんことを――――」


 朝日をその身にまとい、舞い始める。


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