「……ああ、そう言えば」


 その場に崩れ落ちた男の腐乱した身体を見下ろし、澪はたった今思い出したように呟いた。


「……あなたはあの時、たった一人、私達から逃げたのでしたね」


 私達が噛みついた右腕を自ら切り落として。

 確かに彼の右腕は肘の下から切断されている。
 その傷がもとで絶命し、腐乱死体となり果てたのだろう。
 とても哀れで、とても醜い死に様。

 薄ら笑いでじぃ、と男を見下す。

 すると不意に腕を引かれ、あっと声を上げた時にはすでに和泉の腕の中。
 一瞬だけ視界の端に銀の紐のような物が弧を描いた。


「油断してはいけないよ、澪」


 厳しい声で耳元で囁かれる。

 何のことかと男を振り返れば、彼は左腕に錆だらけの鎌を持っていた。
 あんな筋肉が機能しているかも分からない身体で、よく持てたものだと感心した。

 男は唸るような声を漏らしながらゆうらりと身を起こす。
 容赦のない肘打ちが腐敗した身体に効き過ぎて立ち上がれないのか、這つくばった体で澪らを睨め上げた。

 男の憎悪に触発されているアヤカシや怨霊達が澪らを囲い、じりじりと距離を詰めてくる。

 澪は冷淡な表情で、男の哀れでおぞましいかんばせを見返していた。
 私も標も、大好きな兄も、この二人から産まれた。
 なんて、忌まわしい……。

 胸の底から煮えたぎるモノがせり上がってくる。
 しかし、それに反して澪の態度も、まとう空気も、刺す程に冷たいものだった。

 和泉が、彼女の頭を胸に押しつける。

 澪は無言で頷き、和泉の胸をそっと押した。
 少しだけ名残惜しく感じる温もりから離れながら、周囲の気配を探る。

 そして、改めて嘗て己の父親であった男を見やった。


「戻りなさい。黄泉へ」


 厳(おごそ)かに、言う。

 男は咆哮した。

 攻撃再開の合図である。
 一斉に躍り掛かる異形のモノ達。

 だがそれよりも、澪の行動は速かった。

 己の影を広げそこから無数の手を伸ばした。
 澪の頭など容易く包める程大きな手は異形を鷲掴みにし、影の中へ引きずり込む。

 それをすり抜けたモノは、源信や和泉に影へ叩き落とされた。

 澪は一本の手を、男へ伸ばす。
 男は腐乱した身体では機敏に動けず、容易く頭を掴ませた。


『ぉ……ノれぇ……オノれ……オのレ……ヤクたタずめ……』


 澪は数歩男へ歩み寄った。
 冷めた目で見下す。


「役立たずで結構。よるとあさは、あなた方のような人間達の犠牲になる為に生まれたのではありません」


 そもそも、生け贄になる為に生を受ける命があろうものか。

 私は――――いえ、よるという娘は、生きていきたいと思った。
 何でも知っている兄と、言葉を喋れない泣き虫の妹と一緒に、ずっとずっと生きていきたいと願った。
 あんな狭くて暗い場所ではなく、もっと広い世界の中で、沢山のことを全身で感じたかった。

 死にたくなんてなかった。
 《死》が何であるのか全く知らない筈なのに、死ぬことがとても恐ろしかった。

 それは当たり前のことだと、今なら分かる。
 生きる者は皆等しく死を――――己という存在の終焉を本能で恐れる。
 死への恐怖は全ての生き物の本能に生まれた瞬間から深く刻み込まれているものなのだ。

 あの時よるは、知識としては知らずとも死が如何なるものか本能で察していた。だからこそ、死を恐れた。生きたいと思った。

 彼らだって、同じだった。死を恐れた。生き延びたいと心底願った。
 当たり前のこと。

 けれど――――。


『よる、あさ。話が順調に進んでいる。もうすぐ村は助かる。お前達が生け贄になることは絶対に無い。だから、もう大丈夫だ』


 脳裏に響く、珍しく嬉しそうに弾んだ最愛の兄の声。
 兄は村が助かる方法を見つけ、すでに実行していた。
 もうすぐ村が助かるところだったのだ。

 だのに、彼らは。


 誰よりも村を思っていた兄を裏切り者と罵り、殺した。


 兄が苦心に苦心を重ねてようやっと見つけた光明を、塞いでしまったのだ。

 鬼様への信仰を止めてしまうことに恐怖したのではないと、よるは死した後に知った。
 喰らった本人達の思念が教えてくれた。


 ただ、兄の言う通りに村の外の人間に頭を下げて助けを乞うことを、彼らの矜持が許せなかっただけだ。


 そんな馬鹿馬鹿しい理由で、兄は殺された――――。


「い……っ!」


 腕に強い痛みを感じ、澪ははっとして我に返った。

 どうしてか自分は腕を振り上げている。
 その腕を、和泉に掴まれている。指が食い込む程に強く。


「いずみ、さま……」

「……はは、女の子の澪に力で負けそうになるって、ライコウが見たら叱られそう」


 和泉は苦笑し、力が抜けた澪の腕を降ろす。

 いつの間にか静まりかえった周りを見渡すと、もうアヤカシも怨霊も消えていた。
 あの、嘗ての父親も。

 ここに、黄泉に帰るべき死人は、自分しかいない――――。


「あ……」

「もう全て、帰ってしまいましたよ。澪」


 頭を撫でるのは源信の手。

 澪は源信を見上げ、もう一度辺りを見渡した。

 深呼吸を一つする、


「終わった……」


 自分に言い聞かせるように、呟く。

 源信と和泉を見やれば、彼らも首肯してくれる。
 澪は肩から力を抜いた。

 刹那。


「――――ッ」


 微かな衝撃が、胸を震わした。
 澪は何かに弾かれたように夜空を仰いだ。意識を研ぎ澄ませ、衝撃の正体を探るうち、熱いものが込み上げてきた。


「ああ……っ」


 絶句。
 目を細め、胸に両手を重ねる。


「澪? どうしました」


 源信が問うのに、澪はすぐには答えなかった。顔を俯かせ長々と吐息を漏らした。

 澪は長らく、言葉を発しなかった。
 感極まったように閉じた瞼を震わし、何度か震えた吐息を漏らす。

 嗚呼……やっと……やっと……!

 やがて、震えた声が感慨深げに言うには、


「本当に……本当に、もう、終わったのですね……」


 この場にいない人物へと、言う。

 その言葉が何を示すのか、和泉も源信もすぐに察した。
 互いに顔を見合わせ、夜空を仰ぐ。


「そうか……終わったんだ」

「ええ。では、戻りましょう。宮様、澪」


 源信に呼ばれ、澪も頷く。
 笑みには深い安堵の影に、ほんの少しの寂しさが垣間見えた。



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