澪に警告され、和泉は引き下がったように見せかけて、彼女が油断した隙に一瞬で距離を詰め腕を伸ばした。
 小さな双肩を掴み自身の懐へ引き寄せる。抵抗する暇を与えずに背中に両腕を回し押さえつけた。

 澪は突然の密着に動揺している。
 まだ平静を取り戻していないから近付かないようにと言っていたのに、従う振りをして真逆の行動を取ったのだ。狼狽しない筈がない。


「あっ、あのっ、」


 自分に密着しては危険だと言いたいのだろう。必死にもがいてはいるものの、和泉を傷つけまいとその力は加減されている。
 それを良いことに和泉は澪の頭を撫でながら、彼女の体温を感じた。
 作られた身体でありながら、本物の人間に近い――――否、同じだ。

 今までは身近にあったこの感触が、もうじきこの世からいなくなる。

 和泉が死ぬまで、二度と会うことは無くなってしまう――――。

 彼女が確かに生者の世界に存在している証であるこの体温が、感触が、愛おしく、手放しがたい。

 どうして、自覚してしまったのだろう。
 愛していると分からなければ、気の置けない仲間として別れがたいだけで済んだのに。


「大丈夫。俺は死なないよ。殺されない。この大仕事の先にもやるべきことが、それはもう大量に待ち受けているんだし」

「で、ですが今の私は……!」


 そこで、和泉は澪を放す。
 澪がすぐに後ろへ退こうとするのを、双肩を掴んで引き留める。

 焦燥の滲んだ顔を見つめ、にっこりと笑う。


「ほら、大丈夫だった」


 澪は和泉を見上げ口を数度開閉させた。和泉が笑顔を崩さずにいるとがくんと肩を落とし、長々と嘆息し恨めしそうに睨んでくる。


「あなたという方は……」


 責める言葉が出てくるだろう口は、しかし閉じ、呑み込むように歪んだ。

 何故かはすぐに分かった。


「宮様、澪」


 源信が戻ってきたのだった。
 怪訝な顔して周囲の様子を確認しながら、こちらへ近付いてくる。

 何か遭ったのか問われ、澪の生前の母親が現れたことを説明すると、納得した様子で頷いた。


「私が離れている間にそのようなことが……すみませんでした」

「源信の見回りも必要なことだよ。そっちは大丈夫だった?」

「ええ。小さなアヤカシに二度程襲われましたが、それ以外は静かなものです。獣達すら、この異常事態に怯えて隠れているようですね」


 澪は周囲を見渡し、申し訳なさそうに目を伏せた。


「早く、この事態を収束させなければ……」


 祈るような呟きを漏らす澪を、和泉は微笑みを浮かべて呼び、上がった顔を両手でそっと挟んだ。
 身を屈めて目線を合わせると、顔が近すぎでたじろいでしまったらしい、ほんの一瞬強い引力を秘めた双眼が逃げるようにさまよった。

 ややあって、視線が絡む。

 そこで、和泉は笑みを深めて声音柔らかに断じた。


「晴明達なら、迅速にやり遂げてくれる。なんてったって、仕事寮が誇る稀代の大陰陽師様と、その大陰陽師様が生み出した式神達なんだし。それに――――自分で言ったことを守れませんでしたー、なんて格好悪い姿、晴明の矜持が絶対に許さないだろうねぇ」


 源信を振り返って同意を求めると、何とも言えない苦笑が返ってきた。
 それを肯定と無理矢理に解釈し和泉は澪に視線を戻す。


「だから、俺達は俺達に任されたことをきちんとやろう。晴明に嫌味言われない為にもね」

「……はい。ありがとうございます、和泉様」


 澪の目が細まり、顔がゆっくりと上下する。

 和泉は頷き返して、背筋を伸ばした。
 源信を振り返る。頷き合い、澪を見下ろす。


「じゃあ、休憩はこれで終わりにして、もう少し頑張ろう。晴明達が帰ってきた時、俺達に任せたことが間違いだったなんて思われないように」

「はい」


 三人で視線を交わし合い、歩き出す――――。



‡‡‡




「宮様、そちらです!」

「了解――――っと!」


 源信の攻撃を逃れた一体のアヤカシが、澪へ凶悪なあぎとを開き躍り掛かる。
 しかし、和泉の小太刀一閃のもと斬り伏せられ、地面に広がる影に呑み込まれる。

 澪は自身の影を一帯に広げ、怨霊やアヤカシのみを影の中に引き込み続けていた。
 アヤカシと戦い忙しなく動き回る和泉と源信を呑み込まぬように意識を影へ集中させねばならぬ故、身動きが取れない。無防備な澪を守りながら、二人は彼女へ押し寄せるこの世に在らざる者達を一体一体確実に影に伏せていった。

 あれから、ほぼ残党狩りと言って良い筈が、どうしたことか一斉に澪達を強襲にかかった。

 突如統制が取れた動きを取り出した弱小の怨霊やアヤカシ。
 彼らの低い知性では、よしや危機感を抱いたとしてもこのような行動は取るまい。

 力の強い怨霊か、アヤカシか――――どちらかを見逃してしまったのか?

 いや、有り得ない。
 それならば澪が察知した筈だ。

 ならば何者が――――。


「澪!!」

「っ!」


 源信が叫んだ直後、背後に気配。
 間近で感じて、正体を知った。
 ああ、なるほど。


 確かに《あなた》は力は強くない。


 きっと、周りが畏怖する程に憎悪が強いのね……。


 《よる》と《あさ》の、おとうさま。


 和泉達が駆け出すより早く、後ろから肩を掴まれる。

 澪はゆっくりと振り返る。

 おぞましい程に全身が腐れ朽ちた壮年の男が、口を半開きにしてこちらを憎らしげに睨んでいる。

 澪は、おどろしき怨霊に、真綿のような優しい笑みを浮かべた。


 そして。


 彼の腹部に向けて思い切り肘を打ち込む――――。



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