弐
迷ってしまいそうだ。
彩雪(さゆき)は目の前の青年に続きながら心中にて独白した。
広大な大内裏は、彩雪には異世界のように思えた。
雅な世界は外の町並みとは一線を画し、朱雀門を潜れば空気もまたがらりと変わった。
雅で、厳粛。
そんな空間に自分は場違いな存在ではないだろうかと、いやが上にも思わせる。
時折すれ違う人間達の好奇の目もあるのだろう。
そんな大内裏の中を悠々と闊歩(かっぽ)する青年は滑らかな黒髪を紫、時に青に煌めかせ、彩雪を振り返ることも無い。
彼の名は安倍晴明。主上――――帝に使える高名な陰陽師。
彩雪は彼に作られた式神だ。
だが、己にも理由は分からぬが、彼女には自己を形成する過去が無いのに《彩雪》と言う名前がある。主には頑として否定されているが、絶対に、これは自分の名前だ。
悲しきかな、主や先輩に当たる式神には《参号》と呼ばれているけれど、いつかは、彩雪と呼んでもらいたい。それを許してもらいたい。でなければ、物凄く寂しい。
長く複雑な簀の子と渡殿を通っていると、不意にとある部屋からひょこっと首が現れた。
少女だ。黒髪の襟足がさらさらと揺れた。
彩雪は息を呑んで足を止める。
目が合った瞬間、少女は部屋に引っ込んでしまった。
それに惜しいと思ってしまったのは、多分少女の目の所為だ。
なんて強い引力だろう。
少女の目は強く強く彩雪の意識を惹き寄せた。一瞬の目の力だけで、こんなにも、頭に刻みつけられたみたいに鮮明に残ってしまう。
澱みを知らぬ純粋な目。だから、あんなにも惹きつけるのだろうか。
不可思議な少女だった。
大内裏にはあんな子もいるんだ……。
年も近そうだったし、また会えたら――――。
って。
彩雪の主はそのまま部屋へと入って行ってしまった。
声をかけるよりも早く完全に姿が見えなくなった。
慌てて追いかけ、晴明の後ろから中を覗き込む。
そして、あっと声を漏らした。
「やあ、予想通りまた会えたね」
見覚えのある青年が、こちらに微笑みかけていたのだった。
‡‡‡
神泉苑に迷い込んだのはつい先程のことだった。
目の前にいる青年――――和泉は、そこで小鳥達と話していた。そして朱雀大路までの道を教えてくれて……。
どうして、ここにいるの?
思わず目を擦ってしまったのはあまりにも予想外だったからだ。
先程の少女のことも、一瞬で吹き飛んでしまった。
「……い、和泉?」
「うん、さっきぶり」
確かめるように彼を呼ぶと、首肯が返ってくる。それどころか、ひらひらと片手を振ってくる。
「え……なんでここに和泉が――――」
「なっ!? き、貴殿! 宮に向かって失礼であろう!」
「きゃ……!」
まさに、雷鳴。
低い怒声に彩雪は身体を大きく跳ねさせ、咄嗟に和泉の背中に隠れてしまった。
突然怒鳴られた、その理由が分からなかった。何か悪いことでもしてしまっただろうか。
……いや、呼び捨てが駄目だったのだろうか。
怒鳴った人間を捜せば、唇を真一文字に引き結んだ、厳めしい武人然とした青年が仁王立ちしていた。
口を開こうとしたのにまた首を竦めると、
「やめなよライコウ。参号が驚いてるだろ? ただでさえ、キミは声が大きいんだから」
和泉がやんわりと窘(たしな)めた。
親しげに、ライコウと呼ばれた青年は困惑したように顔を歪めるが、表情を引き締めた。
「しかしながら、いきなり宮を呼び捨てなどと」
ああ、やっぱり呼び捨てで怒られたのか。
呼び捨てにしてくれって《ちょっと》強引に言われたからその通りにしていたのだけれど、やっぱり身分の高そうな人だし……呼び捨ては駄目なのかな。
「俺が頼んだんだよ。呼び捨てにしてくれって」
「なんと……、宮、またそのような戯れを」
「キミは本当に頭が固いね。まあ、そこがいいんだけど。とりあえず、ここは俺の好きにさせて欲しいな」
ぽんと気むずかしい顔で唸るライコウの肩を気安く叩き、和泉は彩雪を振り返って俯き加減だった顔を覗き込んできた。少しだけ驚いた彩雪は一歩だけ後退する。
「驚かせてごめんね。大丈夫かい?」
「大丈夫……です。あの、」
「和泉って、そのまま呼び捨てでいいからね?」
和泉さん。
そう呼ぼうとしたのを遮って制された。少しだけ強い語調は、彩雪だけでなく、ライコウにも向けられたのだろう。渋面が更に濃くなった。なにぶん、眼光が鋭いのでまるで睨まれているようで、また怒鳴られてしまいそうで気が気でなかった。
和泉の背後に隠れたまま顔を出して様子を窺うと、目が合う。
咄嗟に隠れてしまった。
どうするべきかと思案しながらもう一度見て、えっとなった。
彼は、固まっていた。
かと思えば頬に朱が走る。
……何事?
「ね、ねえ、和泉。ライコウさん、具合でも悪いんじゃ……」
「うん? ……ああ、うん。これは――――そうだねぇ」
ライコウの様子を眺めている和泉は何だか楽しげだ。
病気の類では、ないのだろうか。
では、どうして?
ますます混乱した。
和泉はライコウの隣に立って背中を叩いた。
「ライコウ。挨拶くらいしたらどうだい?」
「……っ!」
そこで、彼はようやっと我に返ったらしい。
彩雪から視線を逸らし、コホンと咳払いを一つ。
「……源頼光、と申す」
憮然と、短く名乗った。
.
[ 15/171 ]*┃#栞挟戻