迷ってしまいそうだ。
 彩雪(さゆき)は目の前の青年に続きながら心中にて独白した。

 広大な大内裏は、彩雪には異世界のように思えた。
 雅な世界は外の町並みとは一線を画し、朱雀門を潜れば空気もまたがらりと変わった。
 雅で、厳粛。
 そんな空間に自分は場違いな存在ではないだろうかと、いやが上にも思わせる。
 時折すれ違う人間達の好奇の目もあるのだろう。

 そんな大内裏の中を悠々と闊歩(かっぽ)する青年は滑らかな黒髪を紫、時に青に煌めかせ、彩雪を振り返ることも無い。
 彼の名は安倍晴明。主上――――帝に使える高名な陰陽師。

 彩雪は彼に作られた式神だ。
 だが、己にも理由は分からぬが、彼女には自己を形成する過去が無いのに《彩雪》と言う名前がある。主には頑として否定されているが、絶対に、これは自分の名前だ。
 悲しきかな、主や先輩に当たる式神には《参号》と呼ばれているけれど、いつかは、彩雪と呼んでもらいたい。それを許してもらいたい。でなければ、物凄く寂しい。

 長く複雑な簀の子と渡殿を通っていると、不意にとある部屋からひょこっと首が現れた。
 少女だ。黒髪の襟足がさらさらと揺れた。

 彩雪は息を呑んで足を止める。
 目が合った瞬間、少女は部屋に引っ込んでしまった。
 それに惜しいと思ってしまったのは、多分少女の目の所為だ。

 なんて強い引力だろう。
 少女の目は強く強く彩雪の意識を惹き寄せた。一瞬の目の力だけで、こんなにも、頭に刻みつけられたみたいに鮮明に残ってしまう。
 澱みを知らぬ純粋な目。だから、あんなにも惹きつけるのだろうか。
 不可思議な少女だった。

 大内裏にはあんな子もいるんだ……。
 年も近そうだったし、また会えたら――――。

 って。

 彩雪の主はそのまま部屋へと入って行ってしまった。
 声をかけるよりも早く完全に姿が見えなくなった。
 慌てて追いかけ、晴明の後ろから中を覗き込む。

 そして、あっと声を漏らした。


「やあ、予想通りまた会えたね」


 見覚えのある青年が、こちらに微笑みかけていたのだった。



‡‡‡




 神泉苑に迷い込んだのはつい先程のことだった。
 目の前にいる青年――――和泉は、そこで小鳥達と話していた。そして朱雀大路までの道を教えてくれて……。
 どうして、ここにいるの?
 思わず目を擦ってしまったのはあまりにも予想外だったからだ。

 先程の少女のことも、一瞬で吹き飛んでしまった。


「……い、和泉?」

「うん、さっきぶり」


 確かめるように彼を呼ぶと、首肯が返ってくる。それどころか、ひらひらと片手を振ってくる。


「え……なんでここに和泉が――――」

「なっ!? き、貴殿! 宮に向かって失礼であろう!」

「きゃ……!」


 まさに、雷鳴。
 低い怒声に彩雪は身体を大きく跳ねさせ、咄嗟に和泉の背中に隠れてしまった。
 突然怒鳴られた、その理由が分からなかった。何か悪いことでもしてしまっただろうか。
 ……いや、呼び捨てが駄目だったのだろうか。

 怒鳴った人間を捜せば、唇を真一文字に引き結んだ、厳めしい武人然とした青年が仁王立ちしていた。

 口を開こうとしたのにまた首を竦めると、


「やめなよライコウ。参号が驚いてるだろ? ただでさえ、キミは声が大きいんだから」


 和泉がやんわりと窘(たしな)めた。

 親しげに、ライコウと呼ばれた青年は困惑したように顔を歪めるが、表情を引き締めた。


「しかしながら、いきなり宮を呼び捨てなどと」


 ああ、やっぱり呼び捨てで怒られたのか。
 呼び捨てにしてくれって《ちょっと》強引に言われたからその通りにしていたのだけれど、やっぱり身分の高そうな人だし……呼び捨ては駄目なのかな。


「俺が頼んだんだよ。呼び捨てにしてくれって」

「なんと……、宮、またそのような戯れを」

「キミは本当に頭が固いね。まあ、そこがいいんだけど。とりあえず、ここは俺の好きにさせて欲しいな」


 ぽんと気むずかしい顔で唸るライコウの肩を気安く叩き、和泉は彩雪を振り返って俯き加減だった顔を覗き込んできた。少しだけ驚いた彩雪は一歩だけ後退する。


「驚かせてごめんね。大丈夫かい?」

「大丈夫……です。あの、」

「和泉って、そのまま呼び捨てでいいからね?」


 和泉さん。
 そう呼ぼうとしたのを遮って制された。少しだけ強い語調は、彩雪だけでなく、ライコウにも向けられたのだろう。渋面が更に濃くなった。なにぶん、眼光が鋭いのでまるで睨まれているようで、また怒鳴られてしまいそうで気が気でなかった。
 和泉の背後に隠れたまま顔を出して様子を窺うと、目が合う。

 咄嗟に隠れてしまった。
 どうするべきかと思案しながらもう一度見て、えっとなった。

 彼は、固まっていた。


 かと思えば頬に朱が走る。
 ……何事?


「ね、ねえ、和泉。ライコウさん、具合でも悪いんじゃ……」

「うん? ……ああ、うん。これは――――そうだねぇ」


 ライコウの様子を眺めている和泉は何だか楽しげだ。
 病気の類では、ないのだろうか。
 では、どうして?
 ますます混乱した。

 和泉はライコウの隣に立って背中を叩いた。


「ライコウ。挨拶くらいしたらどうだい?」

「……っ!」


 そこで、彼はようやっと我に返ったらしい。
 彩雪から視線を逸らし、コホンと咳払いを一つ。


「……源頼光、と申す」


 憮然と、短く名乗った。



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