「……この辺で少し、休みましょう」


 源信は周囲を見渡し、そう言った。
 先に進もうとする澪の手を引き、闇に目を凝らす。

 澪も源信に逆らうことはせず、源信が足を止めると地面に座り込む。

 和泉がほっと吐息を漏らし、


「だいぶ、静かになったね」


 澪に八咫鏡を持たせる。

 途中から、和泉の発案で八咫鏡を餌に、怨霊やアヤカシをおびき寄せる作戦を取った。

 結果は上々で、離れた場所からも八咫鏡が澪に与える力の気配を感じ取った多くのモノが自ずから姿を見せた。

 しかし、八咫鏡からの供給のお陰で澪は休み無く力を振るい続けていられる一方、疲労は蓄積される。
 座り込んだ澪の顔には疲れがありありと浮かんでいる。そろそろ休まなければこの器も――――澪自身そう思っていた。
 源信や和泉も危惧しており、なるべく長く休める場所へと彼女を誘導し、休憩することにした。

 黄泉比良坂を出て、だいぶ経っている。
 都に至っていた怨霊も数が減り、アヤカシも鎮静化しつつある。
 だが、間に合わずにこれまでに犠牲になった生者も、いる。
 後悔する暇も無い今、弔うことも出来ず、翌朝には騒ぎになり、無関係の誰かが傷つくだろうと、胸が痛む。

 加えて、道満達のことも心配だ。

 晴明達は無事だろうか。道満を止めることが出来ただろうか。
 ざわめく胸中に、大丈夫、大丈夫と自身に言い聞かせながら、澪は休む傍ら周りの気配を探る。


「宮様。わたくしは、少し周囲の様子を見てきます」

「分かった。気を付けて」


 澪の隣に和泉が座る。

 頭を下げる澪へ源信は微笑みかけ、表情を引き締めて駆け出した。
 たたたた、と源信の足音が遠ざかっていく。

 澪は深呼吸をして、八咫鏡を見下ろした。
 鏡面に己の顔が写っている。
 元の顔だ。
 我知らずほっと息をついた。

 と、和泉に顔を覗き込まれて驚いた。


「澪?」

「……いえ、何でもありません」


 間近で見つめられて、困惑してしまう。
 心臓が鼓動を早め、夜なのに、いやに暑くなる。
 これは一体、どうしたことだろう。
 よく分からない。

 澪は、これまで何百、何千、何万の命の旅路を導いた。それだけの数の人生を、自身の目で見、妹に伝えてきた。
 その中に当てはまる例が幾つもあるのだが、澪は気付かない。

 和泉の顔が視界から離れたことにほっとして、鏡面に視線を戻した。


「もし、調子が悪かったりしたら、ちゃんと言うんだよ」

「はい」


 頷くと、頭を撫でられる。
 心臓が大きく跳ね上がったものの、幸い、表面に出ることは無かった。

 驚いたのに、手が離れると少し残念な気持ちになる。

 声が漏れそうになった口を真一文字に引き結び、澪は鏡面を撫でた。


「……澪」


 ふと、和泉が呼ぶ。

 澪は顔を上げぬまま、


「はい」

「道満を止めて、黄泉の扉を閉ざした後、君達は黄泉に帰ることになるんだよね」

「はい。本来のお役目がありますし、黄泉の中もすぐに前のようには戻らないでしょうから」


 後者は黄泉の王が無事に戻るか、道満の中で完全に消失してしまうかが、大きく関わる問題だ。
 いつ新たな黄泉の王が、澪にはとても名を呼べぬ尊き神によって任命されるかも分からない。
 自分達が父と慕った黄泉の王が戻ってくれること、道満が菊花のもとへ戻ってくれること――――己が心から望んで止まないことが、必ず叶うなどとは思っていない。

 標の為にも私がしっかりして、最悪の結果を考え今後を決めなければならない。


「黄泉と現世は完全に隔絶されて、こちらの地を踏むことは無いでしょう」


 自身に言い聞かせるように、はっきりと言う。


「そっか……そりゃあ、そうだよねえ」


 和泉は苦笑いして、


「澪や金波達が仕事寮でいられるのも、もう少しか……」


 名残惜しそうに漏らした。

 澪は、胸を締め付けられるような思いで彼の言葉を聞いていた。
 和泉が正式に皇位を継げば、仕事寮は解散するだろう。各々がそれぞれの道を歩んでいく。
 それでも仕事寮の仲間達は、この都にいる。同じ土地で、生きていくだろう。

 されど澪達は――――。


「私達は、死人ですから」


 遙か遠い昔に死んでいる。
 元々黄泉の住人が、生者の世界に出ること自体、誤りであったのだ。
 それを曲げて澪は道満を止めるべく黄泉を出た。
 解決したならばすぐに黄泉へ戻らなければならない。


「じゃあ、俺達は死ぬまで、君達と会えないってことだね」

「はい」

「仕方ないか」


 和泉は肩をすくめ寂しそうに笑う。
 聡明な彼のことだ、澪にわざわざ問わずとも分かっていただろう。

 それでも問うたのは、きっと、澪達との別れを惜しいと思ってくれているからなのだろう。
 源信達も、彩雪も、そう思ってくれるだろうか。

 そうだったら、とても、嬉しい――――。

 澪は目を伏せた。


「ところでさ、澪」

「? はい、何でしょう――――」


 その時だ。


「……よる?」


 真後ろで、声。
 和泉が弾かれたように立ち上がり澪の背後に立つ。

 澪は和泉が後ろに立って視界を阻む直前、声を発した者の姿を見た。

 目を見開き、すうっと息を吸った。


「……お、かあさま」

「え……?」


 和泉が澪を振り返る。

 澪はふらりと立ち上がり、八咫鏡をぎゅうと抱き締めて和泉の横に立った。

 ぼろぼろにすり切れた布を身体に巻き付け麻紐で腰を締めただけの、痩せぎすのみすぼらしい女。その顔には、貪婪(どんらん)な欲望がありありと浮かび上がっている醜い女。


 儀式の直前に、母親だと名乗った女である。


 泥のように重い嫌悪感……いや、憎悪が胸に湧き上がる。

 この人が――――この人達が、私達の大切な人を……。
 憎悪に火が付き、胸を焼く。
 身体が前に傾いたのを、和泉の腕が止めた。

 母親は、窶れきった顔を涙に濡らし、澪へ手を伸ばしながらよろよろ近付いてくる。


「ああ……良かった。よる、生きていたのね。あさは何処? あさもいるのでしょう? 二人共、とっても仲良しだったから……」


 和泉が小太刀の切っ先を向ける。
 母親はたじろぎ、視線で澪に助けを求めた。

 「ここは私に」澪は和泉の手に触れ、そろりと前に出る。

 和泉は承伏しかねるような顔をした。澪が頷いてみせると、渋々と退がった。


「澪……」

「お久し振りです。妹は、今は安全な場所に」

「そう、そうなのね。良かったわ、良かった……」


 母親は涙ぐむ。
 我が子を抱き締めようとするのを、澪はさっとかわす。

 あからさまに避けられたことに母親は暫し茫然としていたが、俯き、胸を押さえた。


「ああ……ごめんなさい……お母さんが間違っていたわ。あなた達をあんな目に遭わせてしまって……お母さん達が間違っていたの……ごめんなさい……ごめんなさい……だから、助けてちょうだい。お母さんを……」

「ええ。助けてあげますよ。もっとも――――あなたの言う『助ける』ではないけれど」

「え?」


 片手をゆっくりと薙ぐ。


「私は黄泉の王の娘、黄泉の澪標。澪標として、死者であるあなたを黄泉へ戻します」


 母親が顎を落とす。


「そ、そんな……よる!」

「私達はもうあなたの娘ではありません」


 冷たい言葉で、突き放す。


「よるとあさは殺されました。あなた達の手によって」


 血が繋がっているからと言って、二人が無条件であなたを慕っている訳がないでしょう。
 今胸で荒れ狂う憎悪が、その証――――。


「私がよるであったなら、あなたへ復讐していたでしょう。あなた達が私にしたことと同じことをしたでしょう」

「……っ!」


 母親の仮面が、女の顔から剥がれ落ちた。
 醜い顔が更に醜く歪み、奇声を上げて澪へ襲いかかる。

 澪はひらりとかわした。
 地面に倒れ込んだのを澪は冷めた目で見下ろす。


「さようなら」


 己の影を広げ、強制的に女を黄泉へ返す。


「い、嫌だ――――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だあああぁぁぁぁ!!」


 更に更に広げて、建物の影に隠れた元同郷の者達も捕らえた。
 生きることに執着した彼ら。
 道満に吸収されることを避け、こんなところに集まっていた。

 黄泉へと落ちるまで、全員が全員、澪を――――生け贄の務めを果たさなかったよるを口汚く罵倒し続けた。

 憎い。
 魂ごと消滅させてやりたい。
――――彼らを喰らってしまえば。

 ざわりと、全身が疼いた。

 澪の異変を察知した和泉が顔色を変えて澪の肩に手を置く。

 澪はその手に己のそれをそっと重ね、


「私は、黄泉の澪標――――黄泉の王の娘、澪ですから」


 衝動を抑え込み、はっきりと言った。

 私はよるではなく、澪。
 あの子もあさではなく、標。
 今の私達は、よるでもあさでもない。
 心の中で繰り返し、疼きを静めた。

 和泉と澪以外、誰もいなくなる。
 冷たい静寂に包まれた。

 澪は溜息をついて、和泉の手をやんわりと剥がし、苦笑いしてみせた。


「すみません。まだ、疼きが静まらないので、少し離れていただけますか?」

「……分かった」


 和泉は、申し訳なさそうに眦を下げ、数歩後退した。



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