冷たい沼のような夜闇の中。
 都は迫り来る脅威を知らず、まるで深い眠りに就いたかのように無防備に沈黙している。
 明るいうちはあんなにも大勢の生き物で賑わっていたそこは、何処を歩いても不気味に静まり返っていた。
 月の光すらも届かぬ狭い隙間に息を潜める小さき黒は、そうっと身を乗り出し辺りの様子を窺った。

 誰もいない。
 だが、目の前の家屋の中には三つの命がある。
 無邪気で弱い小さな命と、その親の大きな命だ。

 あんなにも爛々と煌めいて、なんて羨ましい。
 とても美味そうだ。

 嘗(かつ)ては己も小さな命を守る大きな命であったことを忘れ、小さき黒はのぞり、のぞりと家屋に近付いていく。
 ずっとずっと、空腹が満たされず、小さき黒は地の底で虚無を喰らっていた。
 腹が空く前、大切なものを沢山喪(うしな)った気がする。何かを恨んでいた気がする。

 空腹によって記憶も自我も塗り潰され、この果て無き餓えを満たしたいという強い欲望の塊と変わった。

 喰らいたい。
 妬ましい。
 喰らいたい。
 妬ましい。
 喰らいたい。
 妬ましい。
 憎らしいくらい生気に満ち溢れたあの命を喰らいたい――――。

 それだけしかもう考えられない。


「――――本当に?」


 誰かが、問いかけてきた。
 優しい少女の声だ。
 暗い暗い地の底で無邪気に笑っていた声に似ているが、それずっと落ち着いた賢そうな声だ。

 二人の他愛ない談笑を聞くのが楽しかったことを思い出した。
 彼女らの声を聞くと空腹が薄れる。

 どうして、それを忘れていたのだろう。

 小さき黒は動きを止めた。

 振り返る。

 嗚呼、こんなに側にいたのか。
 綺麗な目をした方の少女――――あの双子の姉だ。
 どうして彼女がここにいるのだろう。
 あの大きな扉の向こうから出てきたのだろうか。

 自分と同じように。

 もう一人は一緒にいないのだろうか。
 あの天真爛漫で泣き虫な、魅力的な声をした妹は彼女の側にはいないようだ。

 優しい姉は、小さき黒を気遣ってその場に両膝をついて目線を下げてくれた。


「あの子は、扉の側であなたのお帰りを待っておりますよ」


 姉は目を細め、微笑む。

 嗚呼、そうか。
 待ってくれているのか。
 ならば、行かなくては。

 だけど、空腹を満たしたい。
 腹が空いたのだ。
 地の底に返っても、二人の声がずっと聞こえる訳ではない。聞こえない時は腹が減って苦しくなる。

 それは、辛い。
 辛い、辛い、辛い。
 だからあの命だけ食べさせて欲しい。
 小さき黒は身体の向きを変えた。

 しかし、


「駄目ですよ。戻りましょう」


 嫌だ。
 食べたい。
 お腹が空いたのだ。

 《俺》は、空腹を満たしたいのだ。


「食べても食べても、満たされないのでは?」


 満たされない?


「ええ、そうですよ。それはあなたが良く分かっている筈です」


 だってあなたは、飢餓で亡くなってしまったのだから。
 いたわりの眼差しで見下ろしてくる。

 小さき黒は動きを止める。

 俺が良く分かっている――――俺が?


「そうです。あなたは亡くなった時のことを覚えておいでです。そして、《食べずに》息絶えたことを、正しい選択だと仰っておられました」


 正しい、選択――――。
 俺は正しいことをした。

 そう。

 俺は、食べなかった。


 食べずに、共に死ぬことを選んだ。


『……ソ、そう、だ――――そうだった』


 俺は正しい選択をして、死んだのだ。
 小さき黒は、声を発した。
 己の声を思い出すように、辿々しく、言を発した。

 忘れていた。
 俺はこんな声をしていたのだった。


『俺、は……そうだった。俺達は、腹が減っていたんだ』


 大雨で川が氾濫して村が流され、俺達は新しい土地を求めて住み慣れた故郷を捨てた。

 長い長い旅だった。
 まともに食料も手に入れることが出来ず、崖から落ちて折れた右足を引きずりのろのろと進んだ。

 そして――――先に病で妻が死に、餓えで娘が死んだ。
 俺は、二人の遺体を食えば、俺だけは助かると、考えた。

 食べたいと思った。
 食べて、生き残りたいと。
 この目の前の肉塊を糧に、生き残りたいと。

 けれど、二人を食料と思ったのはほんの一瞬だった。

 すぐに我に返った俺は、己を恨んだ。
 掛け替えのない家族を一瞬でも食べ物と思ってしまった己を恥じ、恨んだ。

 そして、食べなかったことに安堵して死んだのだ。

 思い出した。
 どうして忘れていたのだろう。

 扉の向こう――――黄泉で、その話をこの双子にしていたのに。
 何度も、何度も、何度も話したのに。

 だのに、いつの間にか命よりも大切なことを忘れていた。

 馬鹿な夫、情けない父親だ。


「そう思われるのでしたら、戻ってお二人に詫びなければ」

『……ああ、そうだ。謝らなければならないことが、沢山あるんだ』


 小さき黒の身体が膨らんだ。むくむくと上へ伸びていく。
 姉が見上げる程背高になった彼は、黒一色でもなくなった。

 窶(やつ)れてぼろぼろの着物を着た男が、小さき黒がいた場所に立っている。

 男は泣きそうな笑顔で姉に頷いた。

 姉も、頷き返す。

 戻ろう。
 彼女の妹が待つ扉へ向かおう。

 だけど、ただ戻るのではない。

 捜しに行こう――――。
 二人を、俺の大事な家族を捜しに。

 許してくれるだろうか。
 許してくれないかもしれない。
 不甲斐ない俺をもう見放しているかもしれない。
 恨まれていても良い。

 それでも、俺は家族を捜しに行かなければならない。



‡‡‡




 黄泉比良坂へ向かって歩き出した怨霊を見送って、澪はほうと息を漏らした。
 後ろで、砂を踏み締める音が聞こえた。


「すんなりと帰ってくれたのは、初めてだね」


 和泉と源信が、家屋の影から現れた。

 二人共、ほっとした様子で微笑んでいる。


「皆様が、こんな風に私の言葉に耳を傾けて下されば良いのですが」


 苦笑を返す。

 彼で何人目になるか分からない。

 澪は今、守りを抜けて都へ侵入した怨霊を黄泉へ戻すべく奔走している。
 和泉と源信が澪の護衛として同行し、ライコウや金波銀波、獄卒鬼には標と小舟の護衛をしてもらっている。
 澪はまだ自分で身を守ることが出来るが、標には危険を避けることすら難しい。

 本当は和泉や源信にも自分より標の側に残っていて欲しかったが、それは金波銀波と獄卒鬼にキツく止められた。
 今は、彼らの判断こそが正しかったのだと思う。

 元々都の影に息を潜めていたアヤカシも、怨霊に同調して凶暴化している。
 予想はしていたが、影響を受けたアヤカシがこれ程に多いとは思わなかった。中には怨霊と融合して更に力を増した者もいる。
 確かに澪一人では、満足に動き回れなかっただろう。

 標を連れてこなかったのも、正解だった。

 標は扉の前に留まり、その声が届く範囲の怨霊を誘って扉の奥へ戻させる。
 澪は届かない範囲を地道に回って目の力で引き寄せ、黄泉に戻す。

 地道で途方もない作業だが、野放しにするよりもずっと良い。

 静かな都だが、確かに脅威はすぐそこまで迫っている。
 澪達が身を隠し、晴明に拾われた糺の森――――の異界。
 そこで、一柱の神がその脅威を引き留めてくれている。
 それでもその膨大した力の波動はここにも及んでいる。

 もし万が一ここにまで脅威が迫ったら――――。
 晴明達が戦いやすいように、障害を一つでも多く取り除きたい。

 勿論、彼がここに来ないのが一番良い。

 道満様に、都の人々を傷つけさせてはならない。


「行きましょう」


 澪は二人を振り返らずに、駆け出した。

 和泉も源信も、何も言わずに彼女を追いかける。



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