壱
冷たい沼のような夜闇の中。
都は迫り来る脅威を知らず、まるで深い眠りに就いたかのように無防備に沈黙している。
明るいうちはあんなにも大勢の生き物で賑わっていたそこは、何処を歩いても不気味に静まり返っていた。
月の光すらも届かぬ狭い隙間に息を潜める小さき黒は、そうっと身を乗り出し辺りの様子を窺った。
誰もいない。
だが、目の前の家屋の中には三つの命がある。
無邪気で弱い小さな命と、その親の大きな命だ。
あんなにも爛々と煌めいて、なんて羨ましい。
とても美味そうだ。
嘗(かつ)ては己も小さな命を守る大きな命であったことを忘れ、小さき黒はのぞり、のぞりと家屋に近付いていく。
ずっとずっと、空腹が満たされず、小さき黒は地の底で虚無を喰らっていた。
腹が空く前、大切なものを沢山喪(うしな)った気がする。何かを恨んでいた気がする。
空腹によって記憶も自我も塗り潰され、この果て無き餓えを満たしたいという強い欲望の塊と変わった。
喰らいたい。
妬ましい。
喰らいたい。
妬ましい。
喰らいたい。
妬ましい。
憎らしいくらい生気に満ち溢れたあの命を喰らいたい――――。
それだけしかもう考えられない。
「――――本当に?」
誰かが、問いかけてきた。
優しい少女の声だ。
暗い暗い地の底で無邪気に笑っていた声に似ているが、それずっと落ち着いた賢そうな声だ。
二人の他愛ない談笑を聞くのが楽しかったことを思い出した。
彼女らの声を聞くと空腹が薄れる。
どうして、それを忘れていたのだろう。
小さき黒は動きを止めた。
振り返る。
嗚呼、こんなに側にいたのか。
綺麗な目をした方の少女――――あの双子の姉だ。
どうして彼女がここにいるのだろう。
あの大きな扉の向こうから出てきたのだろうか。
自分と同じように。
もう一人は一緒にいないのだろうか。
あの天真爛漫で泣き虫な、魅力的な声をした妹は彼女の側にはいないようだ。
優しい姉は、小さき黒を気遣ってその場に両膝をついて目線を下げてくれた。
「あの子は、扉の側であなたのお帰りを待っておりますよ」
姉は目を細め、微笑む。
嗚呼、そうか。
待ってくれているのか。
ならば、行かなくては。
だけど、空腹を満たしたい。
腹が空いたのだ。
地の底に返っても、二人の声がずっと聞こえる訳ではない。聞こえない時は腹が減って苦しくなる。
それは、辛い。
辛い、辛い、辛い。
だからあの命だけ食べさせて欲しい。
小さき黒は身体の向きを変えた。
しかし、
「駄目ですよ。戻りましょう」
嫌だ。
食べたい。
お腹が空いたのだ。
《俺》は、空腹を満たしたいのだ。
「食べても食べても、満たされないのでは?」
満たされない?
「ええ、そうですよ。それはあなたが良く分かっている筈です」
だってあなたは、飢餓で亡くなってしまったのだから。
いたわりの眼差しで見下ろしてくる。
小さき黒は動きを止める。
俺が良く分かっている――――俺が?
「そうです。あなたは亡くなった時のことを覚えておいでです。そして、《食べずに》息絶えたことを、正しい選択だと仰っておられました」
正しい、選択――――。
俺は正しいことをした。
そう。
俺は、食べなかった。
食べずに、共に死ぬことを選んだ。
『……ソ、そう、だ――――そうだった』
俺は正しい選択をして、死んだのだ。
小さき黒は、声を発した。
己の声を思い出すように、辿々しく、言を発した。
忘れていた。
俺はこんな声をしていたのだった。
『俺、は……そうだった。俺達は、腹が減っていたんだ』
大雨で川が氾濫して村が流され、俺達は新しい土地を求めて住み慣れた故郷を捨てた。
長い長い旅だった。
まともに食料も手に入れることが出来ず、崖から落ちて折れた右足を引きずりのろのろと進んだ。
そして――――先に病で妻が死に、餓えで娘が死んだ。
俺は、二人の遺体を食えば、俺だけは助かると、考えた。
食べたいと思った。
食べて、生き残りたいと。
この目の前の肉塊を糧に、生き残りたいと。
けれど、二人を食料と思ったのはほんの一瞬だった。
すぐに我に返った俺は、己を恨んだ。
掛け替えのない家族を一瞬でも食べ物と思ってしまった己を恥じ、恨んだ。
そして、食べなかったことに安堵して死んだのだ。
思い出した。
どうして忘れていたのだろう。
扉の向こう――――黄泉で、その話をこの双子にしていたのに。
何度も、何度も、何度も話したのに。
だのに、いつの間にか命よりも大切なことを忘れていた。
馬鹿な夫、情けない父親だ。
「そう思われるのでしたら、戻ってお二人に詫びなければ」
『……ああ、そうだ。謝らなければならないことが、沢山あるんだ』
小さき黒の身体が膨らんだ。むくむくと上へ伸びていく。
姉が見上げる程背高になった彼は、黒一色でもなくなった。
窶(やつ)れてぼろぼろの着物を着た男が、小さき黒がいた場所に立っている。
男は泣きそうな笑顔で姉に頷いた。
姉も、頷き返す。
戻ろう。
彼女の妹が待つ扉へ向かおう。
だけど、ただ戻るのではない。
捜しに行こう――――。
二人を、俺の大事な家族を捜しに。
許してくれるだろうか。
許してくれないかもしれない。
不甲斐ない俺をもう見放しているかもしれない。
恨まれていても良い。
それでも、俺は家族を捜しに行かなければならない。
‡‡‡
黄泉比良坂へ向かって歩き出した怨霊を見送って、澪はほうと息を漏らした。
後ろで、砂を踏み締める音が聞こえた。
「すんなりと帰ってくれたのは、初めてだね」
和泉と源信が、家屋の影から現れた。
二人共、ほっとした様子で微笑んでいる。
「皆様が、こんな風に私の言葉に耳を傾けて下されば良いのですが」
苦笑を返す。
彼で何人目になるか分からない。
澪は今、守りを抜けて都へ侵入した怨霊を黄泉へ戻すべく奔走している。
和泉と源信が澪の護衛として同行し、ライコウや金波銀波、獄卒鬼には標と小舟の護衛をしてもらっている。
澪はまだ自分で身を守ることが出来るが、標には危険を避けることすら難しい。
本当は和泉や源信にも自分より標の側に残っていて欲しかったが、それは金波銀波と獄卒鬼にキツく止められた。
今は、彼らの判断こそが正しかったのだと思う。
元々都の影に息を潜めていたアヤカシも、怨霊に同調して凶暴化している。
予想はしていたが、影響を受けたアヤカシがこれ程に多いとは思わなかった。中には怨霊と融合して更に力を増した者もいる。
確かに澪一人では、満足に動き回れなかっただろう。
標を連れてこなかったのも、正解だった。
標は扉の前に留まり、その声が届く範囲の怨霊を誘って扉の奥へ戻させる。
澪は届かない範囲を地道に回って目の力で引き寄せ、黄泉に戻す。
地道で途方もない作業だが、野放しにするよりもずっと良い。
静かな都だが、確かに脅威はすぐそこまで迫っている。
澪達が身を隠し、晴明に拾われた糺の森――――の異界。
そこで、一柱の神がその脅威を引き留めてくれている。
それでもその膨大した力の波動はここにも及んでいる。
もし万が一ここにまで脅威が迫ったら――――。
晴明達が戦いやすいように、障害を一つでも多く取り除きたい。
勿論、彼がここに来ないのが一番良い。
道満様に、都の人々を傷つけさせてはならない。
「行きましょう」
澪は二人を振り返らずに、駆け出した。
和泉も源信も、何も言わずに彼女を追いかける。
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