「標も連れて行きますか?」


 ほっと胸を撫でおろした澪へ、男は静かに問いかけた。
 内心を決して悟らせない鉄壁の微笑みを浮かべる大陸の仙人は、こちらの問題に必要以上に関与しない態度を取りつつも、こうして助言をくれる。

 澪は自身に甘えてくるそっくりの妹を見、暫し思案する。

 連れて行くべきだとは、澪も思う。
 大量の怨霊が扉を抜けて生者の世界へ出てしまった。
 道満の吸収から漏れた彼らを連れ戻し被害を最小限に押さえることが、澪標である自分達が今するべきこと。

 澪一人では、彼らを引き寄せることは出来ても、扉の中へ再び戻すことは難しい。

 だけど――――標は自分と違い、最低限身を守ることすら出来ない。
 危険な場所に標を置いて怨霊達を誘い出しに向かうのは不安だった。

 和泉達や金波銀波を残せば良いだろうが、彼女が皆の足を引っ張ることも十分考えられるのだ。

 決めあぐねていると、


「澪」


 晴明が呼んだ。

 澪と男の会話が聞こえていたのだろうか。
 真顔で、


「和泉達なら、お前の双子の妹を死に物狂いで守り抜くに決まっている。それに、奔放過ぎるお前に慣れているのだ、何も問題は無い」


 はっきりと、断じた。

 男が、晴明の言葉を肯定するように、澪の背中を撫でてくれた。

 澪は標をもう一度見た。
 標がきょとんと姉を見返す。

 闇が果て無く広がる上を見上げ、唇を引き結んだ。


「標」

「なあに?」


 標の双肩に手を置き、瓜二つだけれど自分と違ってあどけない愛らしさがある顔をじっと見つめて、


「これから、大変な仕事をするの。あなたも危なくて怖い目に遭わなければならなくなる。泣かずに、お姉ちゃんと一緒に頑張ってくれる?」


 標の答えは早かった。


「うん! 頑張る!」


 深く考えていないからこその答えだと分かったが、澪は標に謝罪して抱き締めた。


「じゃあ、行きましょう」


 手を握り、男に頭を下げる。


「菊花様のこと、よろしくお願いします」


 男は頷き、二人の頭を撫でた。


「行ってらっしゃい。気を付けて」

「行ってきまーす」


 標は、ただただ無邪気に笑う。



‡‡‡




「朱雀、飛べるか?」


 晴明の確認に、朱雀は長い首を揺らして相槌を打った。


「ならば、急ぎ道満を追うぞ」


 朱雀は澪達を見やるが、澪はやんわりと首を横に振る。


「私達は、私達で出られますから。扉を開けるのも閉ざすのも、この澪標にお任せ下さい」

「お任せ下さいー!」


 弾んだ声で澪の言葉を繰り返す標の頭を、晴明の手が撫でる。

 彩雪も、微笑ましげに標を見ている。

 澪は彼らに頭を下げて、標の手を引いて彼らの側を駆け足で離れた。

 標も澪に負けず劣らずの健脚である。
 岩から岩へ軽々と跳躍して渡り、登る。
 これ以上高い岩が無くなると、二人は躊躇い無く何もない闇に向かって高く跳んだ。

 何もない――――いや、あった。
 目には見えぬ、澪標の為に黄泉の王が造ってくれた急な坂道があった。
 それを涼しい顔で疾駆し、扉へ走る。

 澪が黄泉を抜け出した時も、この道を漣と共に走った。
 今は標の手を引いて、走っている。

 道満を止め、黄泉に戻った後、もう私はこの道を登ることは無くなるだろう――――。
 そう思った途端、足がずんと鉛に変わったかのように重くなった。


「澪姉ちゃん?」

「……いいえ、何でもないわ」


 標を振り返り、澪は誤魔化すように笑った。

 と、その時闇の中から不定形のモノが澪標めがけて飛びかかってくる。
 闇に潜み、扉が開くのを今か今かと待ち受けていたのだろう。

 こうなることを予想していた澪は、標を呼んで前へ大きく跳んだ。

 背後すれすれを通過する怨霊は、次の瞬間青炎に包まれ、断末魔の声を上げながら奈落へ落ちていった。

 青炎の塊とすれ違うように、火の化身たる神鳥が凄まじい速さで上昇してきた。


「澪!!」


 朱雀に乗った晴明達が、横に並ぶ。
 怨霊を燃やしたのは晴明が放った青炎だった。

 朱雀の速度を澪達に合わせ晴明が周りを見渡し、


「お前達はただ走れ。雑魚は私が片付ける」

「ありがとうございます。掃除の手間が省けて助かりますが、あんまり倒し過ぎないようにお願いしますね。怒られてしまいますから」


 朱雀が抗議するように鳴いたところを見るに、すでに何体も怨霊を倒してくれているようだ。

 あまり暴れられると、黄泉の王の更に上から怒られてしまう。


「では、先に行って扉を開けておきます」

「ああ」

「標の前でまた教育上悪いものを見せられると困りますし」

「……」


 澪はにっこり笑って、速度を上げた。
 標も、これについてくる。


「標。晴明様が私達を守ってくれますから、一気に駆け上がるわよ」

「はーい!!」

「それと、教育上悪いから、あの二人が一緒にいる時はあんまり見ないようにね」

「はーい!!」


 標は恐らく、分かっていない。

 緩やかに曲がる坂道の終着、黄泉と現世を隔てる扉が見えてきた。

 下を見れば、赤い神鳥の周りで青炎が幾つも爆ぜ、その度に異形の耳障りな悲鳴が聞こえる。
 澪は標に目配せして共に扉に手をかけた。

 標が大きく息を吸い、


「ひーらーけぇーっ!!」


 力を込めた大音声を扉へぶつけた。

 刹那、重厚な扉は自ら動き出すのだ。


「開きました!!」


 澪が晴明達に向かって叫ぶ。
 完全に開き切った瞬間、上空を赤い炎が一瞬で通過した。

 澪も標の手を引いて飛び出すが、晴明が倒しきれなかったらしい怨霊に袖を掴まれてしまう。
 咄嗟に標の手を離し身体を捻った刹那――――。


「汚い手でその方の召し物に触るなぁっ!!」


 顔の右を通過した一矢が、怨霊に突き刺さる。

 怨霊は悲鳴を上げて後ろへ傾き、澪の袖を解放する。
 次の瞬間には怨霊は青炎に包まれ、悲しげに鳴いて堕ちていった。

 澪は和泉に腕を引かれ抱きかかえられるように扉から離された。

 標は――――銀波が弓を構えた金波の後ろへ避難させてくれていた。

 金波達は標と共に澪へ駆け寄った。


「澪様!」

「金波……助かりました」


 「いえ……」金波は頭を下げ、標と、様変わりした晴明を見やった。


「これは一体どういう、」

「その話は後だ」


 晴明が説明を拒む。
 この状況、そんな暇は無い。

 それよりも――――。


「晴明」


 澪を放し、和泉が苦笑混じりに晴明を仰ぐ。


「手伝うかい?」


 説明を求めず、確認する。


「必要ない。私には下僕達(これ)がいる」


 晴明が視線で示したのは、彩雪と朱雀。


「そちらは任せた」


 和泉は頷いた。


「分かった。ただし、後でちゃんと子細を教えてもらうから、生きて帰ってくるように」

「つまらんことを。私が死ぬわけがなかろう」

「だろうね」


 肩をすくめる和泉に晴明は鼻で笑い、朱雀を呼んだ。

 彩雪は慌てて僅かに身を乗り出し、


「道満さんを追いかけてくるね!! 和泉、澪と標をお願い!」

「うん。参号も、気を付けて行ってらっしゃい」


 和泉は片手を挙げて、送り出す。

 朱雀が鳴いた。
 天井に開いた月を臨む大穴から真っ直ぐ飛翔し、流星の如き速さで道満を追いかけていく。

 それを見送った彼は澪を見下ろし、


「俺達は、何をすれば良い? 澪」


 問いかける。

 澪は頷き扉を振り返る。
 目を細めると、扉は軋み、ゆっくりと閉じていく。



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