肆
標を泣き止ませた澪は、妹と一緒に男へ深々と頭を下げた。
「面倒を押しつけてしまって申し訳ありませんでした」
男は澪の頭を撫で、
「いえ。良いんですよ。元はお二人の父君に頼まれたことですし。それよりも、その器にもちゃんと馴染んでいるようですね。何処か不調はありますか?」
「いいえ。私の我が儘だったのに、こんなにもしっかりと作っていただけて幸いでした。どうお礼をすれば良いか……」
「寿命間近の私に礼など不要ですよ。それよりも、早く戻った方が良い。あの二人は標の教育に物凄ーく悪いので」
澪が小さく肩を揺らす。
「……そうですか」
声が少し低く、そして冷たくなったような気がする。
晴明と彩雪を振り返った彼女は、うっすらと微笑んでいる。それが、いやに威圧感がある……。
朱雀が呆れたように鳴いた。
男は肩をすくめ、
「標の前で堂々といちゃつくんですよ〜。外野のことを無視して、接吻までしやがって……」
「そう、標の前で接吻を……」
澪の目が細まった瞬間、
「すまなかった」
晴明が早口に謝罪した。
が、
「狐のお肉って、とても美味しそうですよね」
無視である。
これに、無邪気に反応する標。
頬を紅潮させて澪の袖を引く。
「お肉! お肉食べれるの!?」
「たまの贅沢ね、標」
「ごめんなさい! 澪! お願いだから晴明様を食べないで!」
冷たい眼差しを一転、標へにっこりと優しく笑いかける澪に彩雪が悲鳴じみた声で謝罪する。
澪はこれも無視。
標の手を引いて朱雀の方へ歩み寄り、傷だらけの身体をいたわるように撫でた。
「標。この方の身体を治せる?」
「んー……」標は朱雀の身体をざっと見て、こくんと頷く。
「でもね、ちょっと残るかも……」
「じゃあ、出来るだけで良いからお願いするわね」
「はぁい」
標が朱雀の背中に両手を付けたのを視認し、澪は一歩離れる。
「――――」
標は早口に何かを呟いた。
何を言っているのか聞き取れなかったのに、彩雪達には何かを命令されているように思えた。身体が一瞬だけ痺れたのは、標の声が秘めた力の所為だろう。
朱雀の身体はその一瞬のうちに鮮やかな生気を取り戻した。首を上げて傷の失せた身体を見下ろし、力強い鳴き声を上げる。
鮮やかな翼を悠然と広げる様を見、晴明はほっと息を吐いた。
朱雀が顔を寄せるのに嬉しそうに頬ずりする標は、朱雀から離れるとその場にぺたんと座り込んだ。
妹の隣にしゃがみ込んで、額に手を当てる。
男も歩み寄る。
晴明も立ち上がってそちらへ寄ろうとするので、彩雪が身体を支えてやりながら共に歩いた。
朱雀を治したのなら、晴明様も……と期待もある。
しかし、
「やはり、あなたが側にいないと不安定になってしまいますね」
男が標の額に手を当て熱を計り目を細める。
「不安定って……?」
「元々標は霊力が強く、それが黄泉の王から与えられた力を変質させてしまっているんです。本人では制御が難しくて、澪や金波さん達と一緒にいる時には安定しているのですが、一人になってしまうと、標は精神的に非常に幼いので……」
「心細さから、力にも乱れが生じてしまうということですね」
言葉を引き継ぎ、晴明。
男は頷いた。
「自在に扱えない上で不安定な状態ですから、彼の傷の九割程で限界ですね」
「それだけで十分です。朱雀がそれだけ回復しているのなら、扉の外に出るのも容易い。……標」
「う?」
晴明は見上げた標の頭をそっと撫で、
「助かった。礼を言う」
穏やかに言う。
標は暫くきょとんとして晴明を見上げていたが、ふと目を真ん丸に見開き、
「すごいね。狐のお兄ちゃん、お兄ちゃんとそっくりだーっ」
すごいすごいとはしゃぐ標に、晴明は苦笑する。
標の頭を撫で、
「あまり、私なぞをお前達の兄とそっくりと言うな。彼に失礼だ」
優しく窘めた。
標がきょとんと首を傾けたのをまた撫でて、上を見上げた。
渋面を作るのへ、澪が、
「扉を開けるのなら、私が」
「ああ……」
何かを憂えている様子の彼の思考を澪は読み取ったようで、眦を下げて晴明と同じく上を見上げる。
「……道満様のことですね」
「道満は黄泉の王すらも吸収し、その力は遙かに膨大した。奴に対抗する術が無い訳ではないが……」
躊躇うように目を伏せ俯く晴明に、彩雪はもしかして、と彼の真っ白な姿を思い出す。
「晴明様……それって、もしかして――――」
妖狐化。
彼の言う、道満に対抗する術とはそのことであろう。
晴明は目を開け、小さく頷いた。
「妖狐の力を最大限まで解放すれば、あの道満と対することも可能だろう」
だが、彩雪の脳裏には先程の暴走した姿が鮮明に蘇る。
暴走すれば、彼はあらゆるものを破壊するだろう。
そう思うが、今、彩雪の中に不安は無い。
「じゃあ、やりましょう」
自分でも思ったより、きっぱりと大きな声で言った。
晴明が軽く驚いてこちらを見るのへ深く頷き、両手に拳を強く握って見せた。
「大丈夫です。わたしがいます。……もし暴走しても、戻しますから」
しっかりと晴明の目を見て、宣言する。
晴明は瞠目するも一瞬のこと、ほっとしたような微笑みを浮かべて、頷き返した。
「――――そうだな。私にはお前がいる」
だから恐れるものは何もない……。
晴明は言い、男を振り返った。
「標達と共に、離れていて下さい」
男はしかし、ひらりと片手を振った。
「ああ、大丈夫ですよ。あなた程度の暴走なら、この老い耄れでも十分防げますから」
さらっと言って退ける。
この人、本当に、何者なんだろう。
晴明様もこの人には敬語だし、暴走した晴明様を気絶させてしまうし、『あなた程度の暴走』なんて言っちゃうし……。
気になって問いかけようとすると、晴明が彩雪を手で制し「分かりました」と。
澪が心配そうに男を見るが、男は片手を挙げて軽く左右に振って見せた。
「ささ、早く済ませて何とかして下さい」
余裕のある態度で、晴明を促す。
晴明は表情を引き締め、頷いた。
少しだけその場から離れ、片膝をつく。
そして、彩雪に手を差し出す。
彩雪は頷き深呼吸を一つしてその手をしっかりと握り締め、晴明の前に立つ。
向かい合って、互いに視線を絡めた。
自然と、互いに笑みが浮かぶ。
晴明は彩雪の手を握る力を強め、目を伏せた。
ややあって、足下に光陣が浮かび上がり、まるで無数の蝶が光陣から羽化して飛び出すように、揺らめきながら光の球が上昇する。
その輝きは周囲も照らした。
男を恐れ隠れて隙を窺っていた怨霊達が、この光を恐れ、俄(にわか)にざわめき出す。
晴明の眉間に微かに皺が寄る。
妖狐の力もまた強大である。
力を制御する為に、晴明は途方も無く繊細で厖大(ぼうだい)な精神力を必要とするのだろうことは、彩雪にも予想出来る。
わたしには見守ることしか出来ない。
それでも、傍にいることが支えになるのなら。
彩雪は、手に力を込めた。
晴明の顔をじっと見据え、己が胸に向けて、囁いた。
「……お願い、力を貸して」
どくん、と大きく鼓動した。
胸の奥に隠された勾玉が彩雪のひたむきな想いに応え、熱を持ち、光を放つ。
外へと溢れ出し、光陣から吹き出す光と混ざり合い、溶け合う。
それは玉響(たまゆら)のことであった。
二つの光は破裂した。
殺伐とした闇を遠くまで照らした光は、余韻も残さず彩雪の胸へと、晴明の身体へと戻っていく。
いつの間に、目を閉じていたのか。
ゆっくりと目を開ける。
「……ああ」
吐息と共に、感嘆の声が漏れた。
雪のように白く、白銀に光る複数の尾。
紗幕のように揺らめきながら、尾に重なると溶け込んだように分からなくなってしまう銀髪。
露わとなった上半身から顔面にかけて仄かに青い光が刻印を刻み、脈を打つ。
ぽう、と蒼炎が幾つも揺らめき、彼を守るように囲う。
圧倒的な神々しさに、彩雪はただただ魅入った。
これが……妖狐化?
でも、暴走ではない。
彩雪の中には確信があった。
だって、
「……晴明、様」
掠れた声で呼べば。
彼は、わたしを見る。
わたしを見て、
「晴明様」
笑うのだ。
「心配するな。私は私だ」
彩雪は大きく頷き、晴明に抱きついた。
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