弐
ごりゅ、と右上腕から不快な音が全身に響き渡る。
太い牙が肉を、筋肉を裂き、骨をこする。
一瞬、視界に星が飛んだ。
意識は保てた。だが、壮絶な痛みが、意識を攫(さら)おうとする。
駄目だ。自分をしっかり保たなければ。
晴明様が、わたしを殺す――――。
顎の力が弛む。
すぐに力がこもって骨を擦る。
痛い……痛い……!!
葛葉さんも、こんなに痛かったんだ。
でも、晴明様の方が、もっともっと痛くて、苦しかったんだ。
葛葉さんもそれを知っていた。
わたしも、分かる。
だから意識を飛ばしてなんかいられないでしょう!!
「――――晴明様」
目を逸らすな。
どんなに怖くても。恐ろしくても。
この人から目を逸らさない。逸らしたくない。
傍にいるって決めたから。
だから――――。
また、顎の力が増した。
上下の牙が骨を挟んだ。
砕かれる……!!
「――――晴明様っ!」
「――――!」
祈りを込めて叫んだ。
それが届いたのか、人狐の動きが止まる。
揺れた。
獣の瞳が。
玉響(たまゆら)に見えた感情は、戸惑いか。
……今なら、声が届くかもしれない。
彩雪は、希望が芽生えた胸から、熱が咽にせり上がってくるような気がした。
「……このまま何もかも傷つけて殺してしまったら、悲しむのは晴明様です」
朱雀は容赦無い攻撃を受け、地面に伏してしまっている。今はまだ何とか消えずにいるが、何の関係も無い外套の男を殺してしまったら次の標的は朱雀になるだろう。
そして、標と言う、泣きじゃくっている少女も。
……わたしも。
そして、彼は悲しむのだ。
自分を責めて責めて責めて――――大きくて冷たい悲しみを、抱えるのだ。
そんなこと、わたしも……葛葉さんだって……!!
「――――晴明様が悲しむのは、葛葉さんもわたしももう嫌ですっ!」
声が嗄れる程の大音声に、牙が僅かに震える。
晴明の顔を見下ろすと、揺れていた瞳は意識を取り戻し、焦点が合った。
それに応じて、攻撃的な妖気は力を失い、消えていく。
沈黙が、降りた。
誰も何も言わない。
外套の男も、少し離れた場所で腕組みしてこちらの様子を窺っている。彼の腰には標ががっちりしがみついている。
誰も、死んではいない。
誰も殺さずに、晴明は彩雪からゆっくりと離れた。
母上、と切れ切れに呟いた。
同時に彩雪の胸に納められた勾玉が、淡い光を放ち始める。
暖かな光だ。
慈母の情にも似た柔らかい光が、優しく、晴明の身体を包み込んだ。まるで、抱き締めるように。
光が薄まると、晴明はもう異形でなくなった。
いつもの、人間としての姿を取り戻していた。
この、青みがかった美しい黒髪は、久方振りに見た気がする。
さらさらと流れる髪を見つめていると、晴明の身体が、力無く崩れ落ちた。
いつの間にか近付いていた外套の男が腹の下に腕を差し込み仰向けに寝かせた。彩雪を一瞥し、再び距離を取る。
「晴明様!」
晴明は呼吸荒く、顔色も悪い。
彩雪が顔を覗き込むと、逃げるように片手で顔を覆い隠した。隠れきれなかった口は小刻みに震え、指の隙間から、瞳が動いているのが分かる。
彩雪は息を呑んだ。まだ微かに残る狂気の炎。
まだ、暴走が完全に収まっていないのだ。
「晴明、様……」
「……参、号?」
狂気の炎が暴走を求め、未だ体内で荒れ狂っているのか、晴明は苦しげだ。
……いや、違う。
彩雪は眦を下げた。
この人がこんなに苦しいのは、もっと別のこと。
……わたしが、葛葉さんの名前を出したから。
今の光景と、重ねてしまったんだ。
あの、悲しみの赤い記憶を――――。
「なぜ……」
「……道満さんが」
それだけで、晴明は察した。
「……そう、か。完全に……奴の掌の上、か」
彼の目が動いた。
外套の男と標に軽く目を瞠り、朱雀を捉えると辛そうに目を閉じる。
「……私は、また暴走したのか」
「……」
「お前や朱雀を……あの二人も、襲ったのか」
「それは……」
彩雪は言い澱む。
違うと言えなかった。否定するには、暴走の爪痕が瞭然と残り過ぎているから。
だが、だからといってそうですとも言えない。
肯定して真実を伝えなくてはいけないと分かっているけれど、晴明が苦しむと分かっていて、どうして肯定など出来ようか。
彩雪が口を閉ざすと、晴明は小さく、弱々しく笑った。
「……なんとも」
「え?」
「なんとも情けないではないか。あれだけ守ると言いながら守れず。挙句の果てには、また暴走だと――――?」
己を嘲笑い、責め苛(さいな)み。
自分を追い込んでいく。
「晴明様」
「道満の言うとおりだ。私は――――弱い」
「晴明様!」
……誰も、守れない。
大切な者も、何も。
虚無に、晴明の力無い声は吸い込まれ、溶けて消える。
自嘲の笑みは強ばり、胃の腑から苦悩に潰れた声を絞り出す。
「私にできるのは、あのような醜い姿を晒して、大切な者の命を奪うことだけだ――――!」
まるで、それ以外の表情を忘れてしまったかのように。
自嘲の笑みが仮面のように顔に張り付く。ぴくりとも動かない。
その目は、虚ろだ。こちらの胸が苦しくなるくらいに、虚ろ。
いつも扇で頭を叩いてくる手は、今は顔に上にあり、震えている。
彼は、今、己の存在すら疑っている。
まるで、迷子のようだ。
彩雪は我知らず晴明の身体に寄り添った。晴明の身体に負担をかけぬように慎重に上にのしかかり――――。
彩雪の重みに晴明は目を剥いた。
主の戸惑いに構わず、彩雪は更に身を寄せる。
鼓動が聞こえる、体温が伝わってくる。
わたしはこの人が大好き。
晴明様に、苦しんで欲しくない。
だって晴明様が苦しいと、辛いと、わたしも苦しくて辛くて、痛い。
涙が、自然と溢れてくる。
首筋に顔を埋め、声を出す。
「……あたたかい、ですよね?」
「……?」
「ほら、わたし生きてますよ。大丈夫です。晴明様が、助けてくれたんですよ?」
「参、号……」
「それに、言ったじゃないですか。わたしが勾玉を持っているんだから、暴走したって大丈夫。ちょちょいのちょいだって」
だから、ちゃんと宣言通り止めましたよ。
彩雪は努めて強気に言ったつもりだ。
だが、ちょっとだけ、声が裏返ってしまった。胸を熱くする強い強い想いが、声を正常に出せなかった。でも笑顔はちゃんと作れた筈だ。
「ついさっきのこと、もう忘れちゃったんですか?」
「それ、は……」
晴明は目を伏せた。
長い睫毛が、微かに震えた。
嗚呼、この人は今葛藤しているんだ。
このままわたしを自分の傍に置いても良いのか――――。
「……また、離れるなんて言わないでください」
ぴくり、と身体が震える。
一瞬だけ目に見えた怯えと戸惑いに、言葉はまた零れ出た。
「……確かに、暴走した晴明様は怖いです。でも、貴方がどんな姿でも、わたしは構いません。晴明様は――――晴明様です。わたしの、たった一人の――――大切な人なんです」
「参、号……」
晴明の中で、大切であればある程離れると言う選択肢は切り捨てられない。
傷つけたくないから。
傷つきたくないから。
そんな悲しい選択を晴明様が捨てられないなら、わたしが捨ててあげよう。
絶対にそんな選択させない。
「傍に……います。ずっと――――」
わたしはこの人と一緒にいたい。死ぬまで、ずっと。
色んなことを二人で分かち合って、笑って、泣いて、怒って生きていきたい。
だから、わたしにも分けて下さい。
嗚呼、駄目だ。言葉じゃこの想いを全部伝えられない。
全部、全部伝えたいのに。
わたしの心に残っていることを余さず伝えて、晴明様を安心させたいのに。
募るもどかしさは、彩雪を動かした。
顔を上げ、彼が反応する前に、そっと。
唇を、重ねた。
晴明の唇は、少しだけ、冷たかった。こちらの体温で、温まれば良いのに。
「約束です」
今度は、上手く笑えていたか、分からない。
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