壱
急いで、急いで、急いで!!
心ばかりが急いてしまう。
彩雪は、炎の化身の背に跨(また)がっている。
朱雀。
消滅しかけたところを式札に戻された朱雀は、彩雪の懐――――勾玉の側にいた。
晴明曰く、勾玉の力で朱雀は助かるかもしれないとのことだったが、まさかこんなにも早く、回復するとは思わなんだ。
まだ本調子ではないのでは……と心配になった彩雪に、目の前で顕現した朱雀は不要だとばかりにその翼を悠々と広げて見せた。
そして――――朱雀は、彩雪を乗せて黄泉へと飛び込んだのである。
深い深い黄泉の中は闇ばかり。
身体はまだ自由が利かぬ。
急がなければ。
急いで、晴明様を迎えに行かなくては!!
ライコウが去った後、晴明は妖狐化し道満と再び衝突した。何としても、都を守る為に。
だが。
黄泉の王を喰らい我が力とした道満は、妖狐すら凌駕した。
今の状態では制御もままならぬ力の上限を上げながら死闘を繰り広げる晴明をただただ見ているしか無かった彩雪は、しかし、苛烈な力のぶつかり合いに惹かれ再び黄泉から這い出た八百の大怨の相手をせねばならなかった。
彩雪が、二人から目を離していた時間は、短くはなかった。
その間に、晴明は圧倒的劣勢に追い込まれていた。
弱った晴明に、道満は――――今度は、心に追い打ちをかけた。
晴明に彩雪を殺したように見せかけて、彩雪に金縛りをかけたのである。
晴明には、道満の放った禍々しい矢によって胸を射抜かれたとしか見えなかっただろう。
驚愕と絶望に染まっていく主の姿を見つめながら、彩雪は身動き出来なかった。わたしは死んでいませんと囁くことすら、叶わなかった。
彩雪が死んだ。
そう思い込んだ晴明に、道満は非情な仕打ちを止めなかった。
自らが身にまとう毛皮を、晴明の母の毛皮だと、告げたのである。
晴明に耐えられよう筈もなかった。
錯乱した晴明は制御不能となり、妖狐でも人間でもない――――異形となった。
理性を失った半妖は、本来の力を道満にぶつけた。
されども、それでも道満を殺せる筈もなく。
彼は、道満によって黒炎に焼かれ、黄泉へと放り捨てた。
道満は、いない。
『体に害はない、しばらくすれば動けるはずだ』 彩雪を本当に殺しはせず、かけた術もそのまま岩窟を去った。
道満はその時までも、彩雪にだけは、気遣いを見せていた……。
晴明様……晴明様、晴明様、晴明様!!
お願い、生きていて!!
強く強く願う。
凍えるような黄泉の闇は、恐ろしい。
朱雀の温もりだけをよすがにして、恋しい主を捜した。
そして――――。
「……いた!」
晴明様がいた!
だが、側に誰かいる。
小さな娘がしがみついた、真っ黒な外套で頭から足先まで隠した人間……人間であれば良い。
その人物は警戒するように周りを見渡している。
よくよく見れば晴明の周りに、蠢くモノがあった。
触手だ。黄泉の闇の、触手が……晴明を虚無へ取り込もうとしている。
だが、触手は晴明には近付けない。
見えない壁にぶつかっているのだ。
何度か触手が跳ね返されると、外套の人物の手が手印を刻むように素早く動く。
あの人、まるで、晴明様を守っているように見える……。
警戒すべき?
信用すべき?
彩雪の迷いを察した朱雀は、上空を一度旋回し、外套の人物の動向を窺い、浄化の炎をまき散らした。
触手達が一斉に逃げ出したのを見計らい、ゆっくりと二人の側に降り立った。不思議と自分達は弾かれなかった。
彩雪達に気付くと、外套の人物は「おや」と首を傾けた。若い男性の声である。
しかしそれとは別に、驚いたことがある。
「え……澪?」
男にしがみつく少女を見、ぽつりと漏らした。
少女は、澪と瓜二つだったのである。
ただ、彩雪にはすぐに違うと分かった。
澪は襟足が長いが、この少女には襟足が無い。
知性の戻った澪は穏やかな表情をしているが、この少女は今は怯えてはいるが、活発で無邪気な明るさが見え隠れしている。
そして何より――――目にあの特徴的な引力が無い。
この子は、澪にそっくりだけど澪じゃない。
じゃあ……この子は、もしかして――――。
「お姉ちゃん、誰?」
「わたしは、彩雪……」
答えようという意思が生まれる前に、口が勝手に動いた。
あれ……と思ったのも一瞬。
男が、怯える少女の頭を撫でた。
「こらこら、標(しるべ)。ちゃんと力を制御しなさい」
「……」
泣きそうな顔で、こくん、と頷く。
「あ、あの……」
「この子は標。この子の声には、力があるんです。力によって、意思に関係無く答えてしまったのですよ。悪い子ではないので、怒らないであげて下さいね」
「は、はい……」
怖ず怖ずと頷くと、男は標の頭を撫でていたその手を上げ、倒れ伏す晴明を指差した。
「ところで、そちらの方はあなたのお知り合いですか?」
「は、はい! わたし……と、この朱雀の主で……!」
「じゃあ、任せて良いですね。老体にはこの虫みたいに気持ち悪い物体を弾く程度しかしてあげられないので、どうしようかと困っていたんですよ〜。この子もずっと怯えてしまっていて……」
「ろ、老体……?」
いやいや、声はとっても若い。
顔を覗き込もうとすると、朱雀の嘴(くちばし)に服を挟まれ引っ張られた。
「そろそろ、目覚めると思いますよ。弱ってるなと思って落下してくるのを見ていたら、いきなり全力で襲いかかられたので、私もついつい驚いちゃって腹を思い切り蹴りつけてしまって気を失っただけなので」
「蹴っただけで気絶って……」
嘘でしょう?
老体からかけ離れていく男に、彩雪は、顎を落とした。
けれども、標が青ざめひぃっと悲鳴を上げた。
「お兄ちゃんが起きちゃった……!」
「え……」
「おや、本当に」
朱雀が鋭い鳴き声を発する。
彩雪はばっと振り返り、息を呑む。
「せ、晴明様……!!」
一気に噴き上がる蒼い妖気。
それが、朱雀と彩雪に襲いかかる。
だが、それは彼らに触れる寸前に消失する。
「いやはや、意外に元気ですねぇ。……加減してなかったんですが」
「あ、ありがとうございます……」
「彼は今、無意識に動いています。本能的に自分を守ろうとしているんでしょうね。ご主人だそうですが、多分今の彼にはあなた方も敵と見なしています。一応、それなりに援護はしますが、私はこの子を優先的に守りますので……」
その、刹那。
「お兄ちゃん……っ」
怯えっ放しの標が、とうとう泣き出した。
大音声で――――。
抗えられぬ引力に、誰もが目を向けた。
白い獣も、また。
「やだよ……お兄ちゃん、怖いよ。お兄ちゃん……お兄ちゃぁん……!!」
『お兄ちゃん』
それは、晴明のことではない。泣きながら標は誰かを呼んでいる。
それは次第に『お姉ちゃん』に変わっていった。
「……澪姉ちゃん……澪姉ちゃん……!」
「澪姉ちゃん……て、」
……やっぱり、そうだ。
澪には、そっくりな双子の妹がいる。
やっぱり、この子がそうなんだ。
その時である。
標と男に躍り掛かった蒼い影に、彩雪は短い悲鳴を上げた。
「危ない!!」
男は標を抱き上げその場から逃れた。
晴明は、標の泣き声の引力に囚われている。
標はより一層泣き出した。
男は晴明の襲撃を老体とは決して思えない軽やかさで避け続ける。
朱雀が間に入り込んだが、晴明は己の式に気付くことも無く、邪魔な物体に妖気が濃縮された無数の蒼炎で打ち据える。
朱雀は地面に転がる。それでも主を止めようと動けば晴明がすかさず攻撃を加える。標の泣き声に朱雀の悲鳴が混ざり、周囲の闇がざわめいた。
彩雪は晴明を追いながら必死に呼びかけた。
「止めて下さい! 晴明様! 晴明様!! 晴明様!!」
暴走だ。
葛葉さんを殺した時と同じ―――!
駄目!! 絶対に止めないと!!
「く……っ!」
舞布を握り締め、思い切り振りかぶった!
晴明の腰にぶつかり動きが半瞬鈍る。
彩雪はその隙に、晴明の前へと滑り込む。
「駄目っ、晴明様――――!!」
.
[ 158/171 ]*┃#栞挟戻