彼女は、目覚めた。
 夢から目覚めた。
 虚無から生じ、現世に目覚めた。

 嘗(かつ)て失われた《想い》を受け継いで――――……。



‡‡‡




 澪は一人、小路を走っていた。
 側には鵺――――漣の姿もある。
 一人と一匹で、無表情に走っていた。
 迷いそうな小道を慣れたように曲がっては真っ直ぐ突っ切り、時折何かを確かめるように築地に上って一旦周囲を見渡す。何かを見つければ家人に見つかる前に飛び降りてまた走り出す。

 そして、都一番の大路、朱雀大路に出て足を止める。右に向きを変えて駆け出した。
 裸足で土を蹴り上げ、行き交う人々を追い越し猫のようなしなやかな所作で避け、北にある区域を目指した。

――――大内裏。
 澪が晴明に拾われ、仕事寮で面倒を見てもらうようになって、毎日通い詰めた場所だ。
 もう、一人でも迷わずに行けるようになった。お使いも、簡単なものならちゃんとこなせる。
 今では漣を連れずに一人で都を走り回っても、右京の南部に行かなければ、許してもらえるようになった。

 獣顔負けの神速で見慣れた朱雀門を通過し、簀の子を走る。
 そしてふととある箇所で急停止してくるりと身体の向きを変えた。簀の子から右に延びた渡殿に、見慣れた姿を見つけたのだ。

 相手も澪に気付き、朗笑を浮かべて足を止めた。


「やあ、お早う。澪。今日も出仕前に散歩に行ってきたのかい?」


 こくり、頷く。
 黄色や緑など、柔らかい色合いの仕立て良く、女物のようにも見える着物を着た青年は澪に歩み寄ってそっと頭を撫でた。


「いずみ」

「ん?」

「おはよー」

「うん。お早う」


 柔らかでとろけそうな笑みだ。
 澪はそれを無表情に見上げ目を細める。
 その瞳に走った感情を、和泉と呼ばれた青年は見逃さなかった。

 仕事寮に入れて、色んな刺激を与えるうち、目だけで表情が分かるようになった。
 元々威嚇の表情以外人間らしい表情はほとんど浮かべられなかった彼女だ、笑う、と言うのはややもすると一生出来ない表情かもしれない。けれども、人間らしい生活の中で一喜一憂する彼女が徐々に徐々に人間に近付いているように思え、安堵する。

 澪の手を引いて歩き出すと、その手をぎゅっと握り返してくる。
 大きな幼児を連れているような感覚が、何処か擽(くすぐ)ったい。小柄で痩せぎすなだけで、外見年齢は自分とさほど変わらないのに。
 漣を見下ろすと、蛇の尾を左右に揺らしながら澪の後ろにしっかりと付いて来ている。


「今日は何処に?」

「森。みおとさざなみ、いた」

「……ああ、糺(ただす)の森だね。じゃあ、帰省だ」

「きせー」

「そう。故郷に帰ることが帰省」

「故郷、帰ることが、きせー」

「よく出来ました」


 ゆっくりと、確かめるように反芻(はんすう)する澪に、頷いてみせる。
 初めて覚える単語は発音が拙(つたな)いが、こちらが口にするのを繰り返し聞いていくうちに自然と覚えていく。故郷も元は『こきょー』だった。
 『きせー』を繰り返す澪を微笑ましく見下ろしながら、和泉はゆっくりと歩を進めた。



‡‡‡




 とある場所で立ち止まった和泉は、澪の手を放し、背中を押して部屋に入る。

 彼らの仕事場、仕事寮だ。
 すでに源信やライコウがいる。
 壱号と弐号もいるが、主の晴明は未だ出仕していないようだった。それに《彼女》の姿も見当たらない。


「宮。今まで何処に……」

「まあまあ。ところで壱号、弐号。晴明はまだ来ていないのかい?」

「晴明なら新しい式神を捜しに行った。あいつ、初日ではぐれたんだ」


 辟易したように、苛立たしげに答える壱号に、苦笑が禁じ得ない。表ではそうでも、裏では別の意味で落ち着かないのが丸分かりなのだ。
 弐号もそれが分かっているから、にやにやと壱号を見上げ――――口を開く前に壱号に蹴り飛ばされた。八つ当たりだ。

 和泉はそれを見送って、澪と漣を源信の隣に座らせ、自身も腰を下ろした。

 澪は早速、源信の袖を引いて先程覚えた言葉を使う。


「森、きせーした」

「森……そうですか。今日は帰省して来たのですね。漣も、澪も、久方振りの故郷は懐かしかったでしょう」


 澪はこくりと頷き、表情を弛めた。源信に言葉が通じて、喜んでいるのだった。
 源信は彼女の頭を優しく按撫(あんぶ)した。



‡‡‡




「晴明はまだなのか」


 苛立たしげに漏らしたのはライコウだ。実直な彼は、晴明達の出仕が遅いことに少々苛立っている。

 それを宥めるように、源信が穏やかな声をかける。


「もうそろそろだとは思いますけど」


 もう出仕してきていてもおかしくないだろうに、一向にその姿が見えない。

 痺れを切らすライコウをぼんやりと眺めていた澪はふとぴくりと身体を震わせ、和泉と歩いてきた簀の子を振り返った。


「どうかなさいましたか」

「せーめー。……誰、いる」


 こてんと首を傾ける。
 緩く瞬いて立ち上がり、簀の子に身を乗り出して覗き込む。漣もそれに倣(なら)う。
 けれども何かに驚いたように、小走りにその場を離れて近くにいたライコウの後ろに隠れた。勿論、漣も一緒だ。

 《知らない人》がいたから、驚いたのだろう。

 それから暫く。
 部屋を訪れた二人組に、和泉は笑みを浮かべた。



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