時を遡る。

 澪が和泉を追い、澪を源信らが追った後、岩窟内は血の臭いにも似た濃密な妖気が漂い、息苦しい。

 この空間に溢れ出していた黄泉の住人達は、王を残して全て道満の右腕に喰われた。
 黒い皮膚には浮き出た血管が異様に大きく脈打ち、血が所々から噴き出す。

 道満は、黄泉の王を見上げる。

 従えていた闇を全て喰われた王は、今まで闇に覆われ瞭然としなかったその姿を月下に晒している。
 彼を隠す闇は、もう無い。

 歴戦の武人然とした堂々たる佇まいに、厳めしい顔は虎の如き重い威厳を放つ。
 大柄な身体はまるで不屈の壁のようで頼もしくも脅威にも感じられる。
 圧倒的な存在感にも気圧され彩雪は一歩後退する。

 ライコウも、息を呑んで目を離さない。
 目を離せばたちまちに命を奪われてしまいそうで恐ろしい。

 しかし。
 二人の耳に、晴明の困惑した声が届いた。


「馬鹿、な――――」


 ……将門。
 将門と、彼は呟いた。
 黄泉の王を、澪が父と呼んだその存在を。

 平将門、黄泉にて君臨する魔王が。


 道満の右腕に吸収される。


 ややあって――――。


「は……はは……」


 こぼれ落ちた声は、道満のもの。
 それは徐々に徐々に大きさを増して、狂(たぶ)れる哄笑――――どの笑いとも判断が付かない笑いと変わる。大音声は岩窟内に反響し、ふと止んだ。
 ぴたりと動きを止めた彼の目には正気は無い。
 人形のように動かぬ道満。

 張り詰めた空気の中、彼に変化が訪れた瞬間、道満を起点に瞬く間に痛烈な光が岩窟内に広がった。
 闇から光が生まれるとは、奇異なことである。

 それは僅かな隙間にすら入り込み、開け放たれた扉の中も浸食していく。

 瞼すら貫き眼球を攻撃する強烈な光はまるで生き物のようだ。

 自由気儘に黄泉へと腕を伸ばすどろりとした光は、突如として引き戻された。
 ……いや、内部から押し返されたのだ。
 何かしらの抵抗が内側から発生したらしい。だが果て無き闇の中、見出すことは難しい。

 光は思わぬ抵抗に怖じて一瞬で収縮する。

 道満は――――大きな変貌を遂げていた。
 元の姿の大部分を保ってはいるが、人ならざるモノと、その場の者達は認識する。

 不思議な文様に飾られた強靱なる鎧に身を包み、弾ける赤黒い光の玉が周りに円を描くように並んで浮遊し、回る。
 白目は黒く澱み、暗い憎悪が赤く渦巻いている。
 肌を不気味に舐める禍々しい気が無ければ、まるで、厳然と立つ荒神のようではないか。

 彩雪にはこの姿が、以前に書物で見た異国の神のように思えた。


「……道満、さん?」

「葦屋道満……これは一体……」

「……全て、喰ったか」


 晴明の呟きに、道満はにやりと口角をつり上げた。
 ようやっと、感情らしい感情が窺えた。

 晴明は、感情を押し殺して問うた。


「……何故、将門がいた」


 その名を繰り返した道満の笑みが、より酷薄に、より愉しげに歪んだ。


「ああ、《あれ》か。正体を澪標(みおつくし)から聞いていなかったのか。あれは、使い道が無いので、黄泉の王としていたのだがな」


 ……思わず、役に立った。
 道満は将門すらも喰らった右手を握り、笑声を漏らした。

 そして、挑発するのである。


「……懐かしき顔だったろう? 晴明」


 晴明の満身創痍の身体から、殺気と怒気が噴き出した!
 道満の名を怒鳴り晴明は術を展開する。

 彼の激情の爆発を表すかのように、無数の式札は宙に広がり、蝶へと変じる。
 様々な色、様々な特性を持った蝶が入り乱れ、道満へ迫る。

 されども。

 道満は、


「……児戯は飽きた」


 と軽く腕を振って虫を払う。
 たったそれだけのこと。
 それだけのことで、全ての蝶は力無く霧散した。

 晴明は舌を打った。

 児戯。
 道満にとって、本当にその程度のものでしかないのだ。
 稀代の陰陽師の力すら――――。

 道満はゆっくりと面を上げ天を仰いだ。

 満月が、清らかな姿を晒している。


 吼える。


 人でも獣でも無い、異形の大音声は空気を震わせ、肌を痺れさせる。
 命の限界を捨てても人の世界に混ざる為に人を装い続けた彼は、人であることを止めた。

 暗い感情を吐き出した咆哮に、誘われたか。


――――オオオォォ
      オオオォォ
        オオオォォ


 扉の向こうから、新たな闇が這い出した。
 ……違う。
 それは、先程の闇とは違うモノだ。
 出してはならないモノだ。
 ライコウは察した。刀に手をかけるも、身体は道満という脅威に動けないでいる。

 晴明の独白が、肯定する。


「八百の大怨か……」

「八百の大怨……? 晴明、それは何だ」

「黄泉の狭間に封じられた怨霊だ。境目の守護者たる黄泉の王が封じていたが――――」


 黄泉の王は、道満に喰われた。
 三人の視線は道満の右腕に。

 本来なら壊れることの無かった檻が壊れた今、自由を得た怨霊達はおどろしき気をまき散らしながら空を目指す。
 解放された歓喜に震える彼らが臓腑を舐めるようなおぞましい雄叫びを上げ猛進する様を、道満は満足げに眺めていた。


「……全て――――全て失え、都人よ!」


 失う痛みを、知るがいい――――!
 底無しの沼よりももっともっと深い憎悪が岩窟の壁を殴って響く。

 それ程の恨みを、彼はどれくらいの時間、抱えて生きてきたのか……。
 折れたりはしなかったのだろうか。
 もう諦めてしまおうと、一度たりとも思わなかったのだろうか?

 その執念は、恐ろしい程に強く激しい。

 彼はここにいる。
 ここにいて、都への憎悪を暴発させた。
 足を前に踏み出し大怨と共に都へ向かおうとする道満は――――しかし、聖なる焔に阻まれた。

 どの楽器にも勝る美しく鋭い鳴き声が夜陰を切り裂く。


「え!?」

「――――朱雀!?」


 現れた神焔の鳥に、主である筈の晴明は驚愕し動揺している。
 彼は、朱雀を召還してはいない。

 主の意思に反して顕現した朱雀は鳴き、道満へ突進する。


 晴明は色を失う。


「朱雀、やめろ!」


 主の制止を黙殺し、火の粉をまき散らして馳せる。
 晴明は何度も朱雀を止めんと叫んだ。

 朱雀は、道満の身体を炎に包む。

 晴明はなおも、朱雀を止めた。そのかんばせは焦りに青ざめている。


 道満が、嗤(わら)う。


「――――はああ!」


 裂帛(れっぱく)の気合いで、朱雀を《消した》。


 ひらひらと、羽根のように舞う火の粉。
 彼らが目にしたのは、空気に溶け行く朱雀の姿。

 焔の神鳥は、呆気無く退かれたのだ。



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