ざわざわ、ざわり。

 ざわざわ、ざわざわり。


 嫌な気配が、徐々に強まっていく。
 小舟を抱き締めている腕を見下ろせばはっきりと鳥肌が立っている。
 澪は深呼吸をして胸を撫でた。


 ざわざわ、ざわり。

 ざわざわ、ざわざわり。


 大丈夫。
 標も菊花も、晴明や彩雪、ライコウ、壱号、弐号、獄卒鬼だって……きっと大丈夫だ。少しくらい休んでも、間に合う。彼らはそう簡単にやられたりはしない。手遅れにはならない。
 今すぐにでも立ち上がって、黄泉の扉に向けて駆け出しそうな己に言い聞かせる。不安に騒ぐ心を落ち着かせなければ。

 また、深呼吸。
 されど心は騒がしさを増す一方だ。
 澪の心中を感じ取った小舟が腕をバシバシ叩き、顔色を窺ってくる。

 澪は取り繕うように笑い、「大丈夫」頭を撫でて囁いた。


「大丈夫だから。あなたは何も心配しなくて良いのよ」

「……澪様」


 大丈夫。
 大丈夫に決まっている。
 不安がるくらいなら少しでも身体を休めておけば良いのだ。
 その方がずっと建設的ではないか。
 だから落ち着いて……落ち着いて……。
 小舟を撫でながら、澪は目を伏せた。

 すると、その時。


「……ねえ、澪。一つ、お願いがあるんだけど」


 和泉が、唐突にそんなことを言い出した。
 見れば彼は自嘲めいた苦笑を浮かべている。彼も彼で何かしら沈思(ちんし)していたが、その間に気分の鬱ぐようなことでもあったのだろうか。

 澪は首を傾けた。

 和泉は、「情けないと思うだろうけど」やおら手をこちらに差し出した。


「少しの間で良いんだ。手を握っていてくれないかな」

「お手を……私が、ですか?」


 和泉は小さく頷いた。はは、と力無い笑声が漏れた。


「どうも、ライコウや参号達のことが心配でさ。危険に突っ込むようなことはしないっていうのは、分かってるんだけど……道満が戻ってきた時のことを思い出すと、どうしてもね」


 人の子なら、それが正しい反応だ。
 現人神(あらひとがみ)であろうと、怯えることを情けないとは思わぬ。
 澪は静かに首を横に振った。


「それは、心ある生者なら、当たり前のことです。恥じることなどありません」


 澪は和泉の側に座り、そっと手を重ねた。
 彼の温かい手は小さく震えている。誰かを守る手が恐怖に支配されている。
 感情があること。それは確かに生きている証だ。
 和泉が生きている証を、澪(しびと)は愛おしく思う。

 和泉が澪の手を握る。その力すら弱々しい。

 きっと今、この人は私以上に不安に思っているのだろう。
 喪(うしな)うのは、恐い。
 この人は無くしたくないものを沢山抱えている。澪よりも、金波よりも、銀波よりも、小舟よりも。
 だから誰よりも不安に思うのは当然のことなのだ。

 そっと握り返すと彼はほうと吐息を漏らした。


「人は弱いが、強い。雪の如く脆いかと思えば、貫き難い程に堅固。その人々を導くべきあなたが人間の弱さを知っていることは、とても大切なことだと思います。民の心を知れば、現人神は民に寄り添えます。ですから今あなたが思っていることは、恥ずべきことではありません」

「……ありがとう。澪」


 が、和泉はそこで、小さく謝罪した。
 もう片方の手が澪の身体に伸び、背中に回る。力がこもり澪の身体が和泉に寄り添う形となった。

 抱き締められている。
 そう思った瞬間、どうしてか心臓が跳ねたような気がした。和泉の動作はゆっくりで、戸惑いはしたが心臓が跳ねる程驚いた訳ではないというのに。
 和泉の体温が高いのか、こちらも徐々に体温が高くなっているように感じる。
 似たようなことが前にもあった。
 何だか、今日の自分はおかしい。

 片腕で支えていた小舟がもぞりと動き、澪の服にしがみつく。和泉は小舟のことを考えてくれているようで、ぴったりと密着とまではいかない力加減だ。


「和泉様、これは……」

「ごめん。本当に。君に散々迷惑かけてるくせに自分勝手なことばかりで」


 少しで良い。少しで良いんだ。
 少しの間だけ、こうさせて欲しい。
 澪の肩に額を載せ和泉は沈黙する。
 「皆なら、大丈夫」――――声無き繰(く)り言は、やはり震えている。

 澪は暫し和泉の様子を窺い、今まで握っていた和泉の手を放しそっと彼の頭にやった。
 臆病ですぐに泣き出してしまう標をあやす時と同じように、優しく撫でる。少しだけ遠慮がちでぎこちないかもしれない。

 けども和泉にはそれでも良かったらしい。

 深呼吸を一つして、彼は小さく礼を述べた。
 首筋にかかる温かい息が擽(くすぐ)ったい。

 和泉はずっと、澪を放さなかった。
 それだけ不安が大きいということなのだろう。
 澪は出来るだけ彼の不安を宥(なだ)められるように、和泉の好きなようにさせた。

 彼が澪を名残惜しげに手放したのは、大袈裟な咳払いが聞こえてからだ。
 どれだけの間そうしていたかは分からない。
 いつの間にか戻って来ていた源信が気遣うような微笑みを浮かべ、後ろで気まずげに和泉を見つめるライコウを振り返った。先程の咳払いはライコウのものだろう。

 和泉が澪以上に不安がっていたからのあの体勢だったのだが、どうも気まずくなって澪は和泉から離れる。後ろめたい気持ちは無いが……どうしてこんなに視線が気になるのだろうか。


「宮様。落ち着かれましたか」

「うん。気を遣ってくれてありがとう、源信」


 和泉は少しだけ名残惜しそうに手を見下ろし、目を伏せて拳を作った後、にっこりと笑ってライコウを呼んだ。


「無事で安心したよ。ライコウ」

「宮こそ。……澪も、元に戻ったようだな」

「はい。ご迷惑をお掛けいたしました。ライコウ様には本当に酷いことをしてしまって……私が未熟なばかりに、申し訳ありません」


 頭を下げると、ライコウは「気にしないでくれ」と優しい言葉をかけてくれる。
 彼は金波銀波の様子に気付くと、顔が強ばった。
 それを察して、金波が頭を下げる。


「少し休めば、問題はありません」

「……そうか。良かった」


 と、ライコウが背後を振り返る。腹を庇った為身体が側面を向く。

 微かな地響きが足裏から伝わってくる。昔から良く馴染んだ感覚に、澪は肩から力が抜けた。
 闇の中から現れたのは、獄卒鬼。傷だらけだが足取りはしっかりしている。

 小舟が身を乗り出し獄卒鬼に向かって両腕を伸ばす。
 澪は微笑み獄卒鬼に我から近付いた。
 小舟を獄卒鬼に差し出すと、獄卒鬼が片膝をつく。小舟はごつごつの肩に乗り足をぶらぶらと揺らした。
 獄卒鬼は小舟を落とさぬようにゆっくりと立ち上がる。
 小舟はご機嫌である。

 澪は小さく笑った。


「ライコウ。俺達が抜けてから、どうなった? 晴明や参号達は?」


 ライコウは厳しい面持ちで頷く。


「はい。今から、順を追ってご説明致します」


 澪にも視線をやり、ライコウは低い声で語り始める――――。



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